ストーリーテリング、「ビジョン 2050」
[ソウル新聞・開かれた世界・2013年5月25日]
ユン・ソンミョン 韓国保健社会研究院 年金研究センター長
経済協力開発機構(OECD)加盟国の中で、我が国の国民幸福指数が最も低い水準にあることは周知の事実である。我々はほぼすべての世代が怒りに包まれている。20代と30代は就職が難しく、就職したとしても非正規職で給与が少ないため不満である。40代はローンを組んで買った住宅価格が下がり、胸が締め付けられる状況の中で、私教育費も膨大にかかるため不満が多い。職場に通う一日一日が薄氷を踏むような50代、OECD加盟国中で最高という老後貧困とそれに起因する高い高齢者自殺率は、60歳以上の世代が示す怒りの端的な表れと言えるだろう。
このようにほぼすべての年齢層が怒りに包まれている我が国において、どこからもつれた糸を解きほぐすべきか。競争相手は周囲の人との優劣関係ではなく、昨日およびそれ以前で代表される「過去の自分」と「現在の自分」との発展程度であると認識するフィンランドの競争意識を取り入れれば解決できるだろうか。とりわけ平等意識が強い我が国国民の特性上、ドゥルグッカ(野菊)の「行進」という歌の歌詞にある叫びと同じくらい、自己確信がなければ解消されないのではないか。
不満はここ数年、福祉の狂風となって我が社会を席巻した。「国家が私に何をしてくれたのか」に始まり、「仮にもOECD加盟国だというのに、我が国の福祉水準はなぜこれほどひどいのか」という形で不満が表出した。このような不満を抱え込もうと提示された福祉公約は、収拾が簡単ではないようだ。65歳以上の高齢者を対象とした基礎年金の公約が代表的な事例である。一旦「国民幸福年金(案)」として整理されたものの、年金受給対象者の割合、年金額の水準、差等支給の基準と差等支給の程度などに関する論争の解消が容易ではないからだ。
2060年に基金が枯渇するという国民年金もそうであり、税金で財源を調達するという基礎年金も、誰がいくら負担し、誰がいくら受け取るのかを巡って世代間の力比べに入った雰囲気である。「基金が枯渇すれば税金で充当すればいい」、「若いうちにせっかく保険料だけを払い、いざ年を取って年金を一銭ももらえないのではないか」など、問題解決への代替案の提示がまさに百家争鳴の状態である。
すでに国民の眼識は高まっている。スカンジナビアの福祉国家ほどの福祉支出を期待している様子だ。しかし、福祉財源は自分より裕福な人が負担せよというやり方である。北欧諸国の平均租税負担率が45%を超え、よくロールモデルとしているスウェーデンの福祉モデルがいわゆる「レーン=メイドナー」モデルと呼ばれる賃金連帯モデルであるという事実からは目を背けながら。高い賃金を受け取る労働者が自分の給与の一部を切り出し、低い賃金を受け取る労働者を補助する形式で運営される体制であるという事実を、知らないふりをしながら。
このような状況で、「2030世代」が感じる不安を軽減できる我が社会のビジョンとは何だろうか。彼らの世代の退職時点である2050年前後、我が社会がどのように変化するというビジョンを提示すれば、彼らの世代の不安感と怒りが鎮まるだろうか。
我々はどのようなビジョンを設定し、どのようなストーリーテリングで我が社会構成員の協力を引き出すべきか。「今後急速に押し寄せる人口高齢化の波を乗り越えるのは容易ではないと考えられ、韓国が予想よりも簡単に崩れる可能性がある」という日本専門家たちの分析背景も念頭に置きながらである。
1990年代に国内総生産比で70%と類似した水準であったスウェーデンと日本の国家負債比率が、20年余りが経過した今、スウェーデンは40%に減少した一方、日本は230%以上に増加した。5倍以上の差が開いたのである。似ていた二つの国の政府の金庫がこれほど差が出るようになった理由は、ビジョンとストーリーテリングを通じた社会的合意の導出における違いのためではないかと思う。
ほぼすべての世代が怒りに包まれている時代において、ビジョンとストーリーテリングは非常に切迫した時代的課題である。どのようなビジョンが必要で、そのビジョンを達成するために我が社会構成員の各々がどのような役割を果たすべきかというストーリーテリングのことだ。ビジョンの共有と推進力の確保のため、労・使・政、そして多様な利害関係者が一致協力してビジョンとストーリーテリングを準備すべき時である。
出典:ソウル新聞(原文を見る)
