(2007年の基礎老齢年金導入と国民年金改革の内容に関する徹底討論、毎日経済新聞 2007年1月25日)(掲載:2026年9月8日)

https://www.mk.co.kr/news/all/4260878
[徹底討論]国民年金改革をどうすべきか
更新:2007.11.01 15:05
毎経・SERI通年企画/ ◆
◆キム・ヨンハ順天郷大学教授「改革ではなく弥縫的な係数調整」
= 政府の改革案は国民年金の枯渇時点をわずか10年余り猶予するにすぎず、改革というよりは係数調整にすぎない。下位所得60%の高齢者に支給する基礎老齢年金は、公平性の問題によって高齢者世代の対立を爆発的に増幅させるであろう。国民年金改革が成し遂げられてこそ公務員年金改革が可能だと盧武鉉大統領は述べたが、国民がまず犠牲になってこそ既得権層がついてくるという話は、国家の指導者が口にしてはならない言葉である。また、国民年金改革案は保険料も引き上げ、給付水準も削るようになっているのに対し、公務員年金改革案は保険料は引き上げるものの、給付水準を削ることについてはきわめて微弱である。
◆ユン・ソンミョン保健社会研究院研究委員「基金枯渇時点の猶予には大きな意味がある」
= 財政安定化の効果だけを考えるならば、これを達成しうる案は理論的には多い。しかし財政安定化に重点を置けば必然的に給付の適切性の問題が生じることになり、この二つの価値のあいだで最大公約数を見いだすのが今の政府案である。わずかに枯渇時点を10年余り猶予させただけだと批判されるかもしれないが、その意味は決して小さくない。今後10年余りが過ぎれば国民年金の受益者が本格的に登場し、制度に対する認識も変わる。
そのときに追加的な財政安定化措置を取ればよい。基礎老齢年金は、政界の議論を経る過程で対象層が大きく増え、遺憾である。
◆カン・ソンウォンSERI博士「基礎老齢年金の対象者選定に問題の余地が大きい」
= 2028年になると65歳以上の高齢者が有権者のうち27%を占めるようになる。彼らはいわゆる386世代以降の世代であり、政治的な組織力の強い世代である。改革は容易ではないであろう。今回、改正案が通過したとしても、早急に再び年金改革の議論を始めなければならない理由である。基礎老齢年金は対象者の選定において問題が発生する余地が大きい。当為的な側面からは、公務員年金改革が先になされるべきである。均質的な利害集団は、非均質的な集団に比べて政府との交渉を有利に導いていく。公務員年金がそうである。
※毎経・サムスン経済研共同企画の対談は、結論が出るまで続けられたいわゆる「徹底討論」であり、2時間40分を要した。
※討論の全文は下部の添付ファイルを参照されたい。
[ノ・ウォンミョン記者]
毎経・SERI通年企画 対談全文
対談:国民年金改革はどうすべきか
日時:2007年1月25日(木)午後2時
場所:ソウル中区筆洞1街30番地 毎経メディアセンター
討論者:キム・ヨンハ順天郷大学教授
ユン・ソンミョン韓国保健社会研究院研究委員
カン・ソンウォンサムスン経済研究所首席研究員
司会:ノ・ウォンミョン記者(毎日経済 編集局 社会部)
○ 司会:国民年金法改正案はまだ国会本会議を通過していない。改正案そのものも多くの限界を抱えているように見える。政府案の長所と限界を振り返り、代案を模索する作業は依然として有効であると考える。まずは政府案の財政安定化の効果から議論を始めたい。政府案のとおりにすれば国民年金の財政は安定するのだろうか。
○ キム・ヨンハ教授:今回、保健福祉委員会を通過した案は、もともとの政府案に比べれば財政安定の効果がかなり不十分であると判断される。外形的に見ても、もともとの政府案には給付水準を50%へ引き下げると同時に保険料を15.9%まで引き上げる案が含まれていたが、保健福祉委員会案では保険料は12.9%までしか引き上げないため、制度改革の効果は、現在の体系を維持した場合に基金枯渇の年度が2047年と予定されていたものが、今回の年金改革によって2065年頃へ遅れるという効果があると判断される。
もともとの政府案によれば2075年頃までもつと考えられていたのが、それより10年早まったということである。もう一つ我々が押さえておかねばならない部分は、2065年と述べたものの、実際にはこれは2001年度の統計庁の人口推計結果を基準として作られた財政見通しであるため、実際に最近の2006年度の人口推計結果を用いるならば、基金枯渇の年度は5年内外さらに早まる可能性がある。そうなると全体として見ればおおむね2060年頃に枯渇すると予想されるので、今の状況から見ればわずか13年ほど基金枯渇の年度を遅らせるにすぎないということである。したがって、今回の年金改革によって国民年金の財政が安定化するとは思うものの、5年後にもう一度改革しなければならず、こうした調子ではさらに5年後にまた改革するという具合に、継続的に改革しなければならなくなる、つまり改革というよりは係数調整を通じた漸進的な制度調整と見ることができる。
○ ユン・ソンミョン博士:年金改革において、理想と現実の溝があまりに大きいように思われる。
一方では確実な財政安定化を行おうと主張するのに対し、もう一方では、財政安定化よりも死角地帯、すなわち年金を受け取れない高齢者に税金を徴収して年金を支給しようという、むしろ財政安定化に逆行する主張が対立しているためである。
財政安定化の方策を議論した国民年金発展委では、所得代替率40%、50%、60%のそれぞれの場合について同一に適用される財政安定化指標(2070年末基準で年金支出額の2倍に相当する積立金の保有)を設定し、これに相応する保険料を設定した。このように3つの代案はいずれも財政安定化の側面では同一であるが、論点は、適正な所得代替率とこれに相応する保険料の水準が、将来世代の負担しうる水準であるかどうかということである。
わが国の国民年金制度が導入初期にある点を勘案すると、年金法上の理論的な所得代替率と実際の所得代替率に乖離が生じるという点を挙げて、急激な所得代替率の低下は難しいという主張が説得力を持っていた。こうした論理を強力に主張する側は、60%の所得代替率を維持しつつ財政安定化が可能な18.85%まで保険料を引き上げようと主張した。こうした主張に対しては、給付の適切性は充たされるであろうが、将来世代に国民年金保険料だけで18.85%を負担させるのはあまりに高い水準であるという判断のもと、[所得代替率50% - 保険料15.85%]の組み合わせを委員会の多数が選好した。こうした代案を採択する場合、少なくとも2070年代半ばまでは基金が積み立てられると予想される。
こうした論理に基づき、50%の所得代替率に保険料は15.85%まで引き上げる案が委員会案として提示されたが、政界など利害関係者を中心に制度改善案に対する反応が多様に表出された。委員会案を反映して政府が提出した国民年金制度の改善案は、与党に渡ると、漸進的に55%を経て50%へ引き下げ調整する改善案へと修正され、国会に提出された。
しかし3年のあいだ年金改革の議論が遅々として進まない状態で基礎老齢年金法が追加され、昨年11月末に国会常任委員会を通過したものの、紆余曲折の末に通過した改正案は当初の委員会案とは異なるものだということである。常任委員会を通過した改善案は、所得代替率は50%へ引き下げつつ、保険料を2018年までに12.9%まで引き上げる案である。改善案に従った場合、キム・ヨンハ教授が言及したように、2065年に基金が底をつくと予想される。当初の政府案に比べて基金枯渇の時点が10年ほど早まったことになる。
現行制度を維持した場合には2047年に基金が枯渇するが、基金枯渇時点をわずか18年延期させることの何が財政安定化の方策なのか、またこのような制度を作るためにあれほどの陣痛を経たのか、という批判が少なくないようである。
このように完全でもない財政安定化の方策を用意して立法化するくらいなら、いっそ完全な財政安定化の方策を用意するまで時間をかけてゆっくり接近してみようという主張も数多く提起されているのが現実である。私自身もまた、国会に係属している改正案が100%完全な財政安定化の方策ではないということには同意する。しかし、財政安定化法案に対する評価については、かなり異なる考えを持っている。
理論的には、100年以上が過ぎた後にも財政不安定が招かれない制度改善案を作ることはできる。問題は、強力な財政安定化の方策であるほど加入者の苦痛が伴うということである。一方では強力な財政安定化の方策を主張するのに対し、もう一方では、その場合には年金額があまりに少なくなり負担水準があまりに引き上げられるので、そのような制度改善案には同意できないとして、反対闘争を行うという立場である。
社会の構成員がみな参加し、社会保険制度として運営される国民年金制度は、いずれか一方の意見だけを受け入れて制度を改めるわけにもいかない。こうした社会・政治的環境のもとで政策立案者や政治家が取りうる最善の選択は、極端な主張を包み込みながら妥協案を導き出すことである。
現在の我々の状況では、財政安定化のためにやみくもに給付を削ることも、際限なく保険料を引き上げることもできない。こうした状況のもとで苦肉の策として用意したのが、所得代替率50% - 保険料12.9%の組み合わせによる財政安定化の方策である。重ねて申し上げるが、財政安定化それ自体としては100%満足できる制度改善案ではないものの、現行制度と比較したとき財政安定化にかなりの部分寄与するという側面から、正しい方向への制度改善であると考えている。
参考までに申し上げると、私もまた2005年から、国民年金の財政安定を達成するためには、すでに提出された改正案よりもはるかに強力な財政安定化の方策が必要だと主張してきた。2005年秋の韓国応用経済学会でも、同じ趣旨の制度改善案を提示した。具体的には、所得代替率をひとまず50%へ引き下げつつ、国民年金と退職年金(2005年12月導入)の制度が成熟段階に入る2028年前後に、国民年金の所得代替率をさらに10%ポイント引き下げ調整した40%へ調整する必要があるという趣旨の論文を発表した。
このような意見を表明した背景には、2003年に国民年金発展委員会で制度改善案を建議した当時と周辺の条件が変わったことがある。2004年12月に退職金を退職年金へ転換する法案が通過したことに伴い、2005年12月から退職年金制度が導入された。退職(年)金の場合、月々の保険料8.3%を使用者が負担する。2003年に提出された国民年金法改正案に従った場合、長期的には国民年金と退職年金を含めた負担率が24.2%(国民年金15.9% + 退職年金8.3%)に達することになり、負担水準があまりに高いという判断に起因する。他方、所得代替率の場合は国民年金(50%)、退職年金(20%前後)であり、これもまた少なくない水準である。
これに伴い、両制度が成熟段階に入る場合には実際の所得代替率と理論的な所得代替率の乖離が縮まるであろうという点に着目し、2030年頃に国民年金の所得代替率を40%まで引き下げる必要があるという主張をするに至ったのである。この場合、2003年の国民年金発展委員会と同一の財政安定化指標を採択するならば、すなわち2070年代半ばまで積立金を維持する財政安定化の方策を導き出すのに必要な保険料は12.9%と試算された。
現在国会に提出されている財政安定化の方策よりも強力な財政安定化の方策を望むのであれば、こうした内容を反映した財政安定化の方策を法制化すればよい。実際に保健福祉部でも2006年6月に、私が申し上げた制度改善案とほぼ類似した改正案を政界に提示したが、結局は与党と政府の協議過程で、常任委員会を通過した法案へと後退してしまった。
こうした経験が意味するところは、完全な財政安定という理想と、これに伴う苦痛を最小化することを望む国民年金加入者など利害関係者および政界の現実とを勘案するとき、両極端の折衷点を採択せざるをえないということである。我々が現在受け入れられる財政安定化の程度はこの程度であるという現実をひとまず受け入れたうえで、財政安定化のための方向性の設定が正しくなされた以上、多少不十分な部分があっても改正案が速やかに国会で通過できるよう、社会的合意の導出に総力を傾けるべき時点だということである。
○ カン・ソンウォン博士:お二方がおそらく的確に述べられたと思うが、ひとまずキム先生は、改革案そのものとしては不十分な改革案であると述べられ、ユン先生もそれに同意されたものと理解している。
ユン先生が2005年に作成した論文を見ると、50%、15%の案で進めつつ2028年にもう一度計画を立てようというのが骨子であった。もう一度改革をしようというのは、給付をさらに引き下げようというのが骨子であった。
ところが私が見るところ、いま我々の社会の高齢化という状況のもとでは、追加的な改革が有利に作用しないということである。2028年になると55歳以上が19歳以上の有権者の46%を占めるようになり、65歳以上は27%を占めるようになる。
しかも、この時点で65歳になる人を見ると、80年代前半に大学に通った人々以降の世代になる。そのため政治的な組織力がかなり強い世代になるということである。この人たちが年金給付をそう簡単に手放すだろうかという、若干の疑問を抱いた。そのため、改革はそう簡単ではないであろうと思われる。
したがって、追加的な改革が必要であるということは認めるものの、その追加的な改革が果たして政治的に容易であろうかという疑問が提起されるところがある。
第二に、そうであれば13年という歳月を稼いだことについては評価を与えねばならないと思われるが、いま年金改革そのものがかなり難しい状況にあった。
改革を推進している政府与党に対する支持率があまりに低く、また大統領選挙という大きな選挙が控えていたため、いわば大胆な改革案を誰かが政治的な犠牲を払ってまで打ち出せる立場にはなかったということである。そのため時点そのものがかなり悪い時点であり、私はそれゆえ、この年金改革はほとんど実現しないのではないか、時間ばかり引き延ばした末に次の政権へ持ち越される状況になるのではないかと見ていた。
ところが、それなりの妥協案を引き出したという点については、私はそれなりに成果があったと見ている。その13年という時間を稼いだのだから、これ以上高齢化が進んで政治的な均衡の力関係が改革を非常に困難にする、そうした状況が訪れる前に、早急にもう一度改革の議論を始めねばならず、その改革の議論を行える時間を稼いだという点はひとまず高く評価すべきであろう。ただし、今の改革では心もとなく足りないという話である。
したがって、数理的な分析についてはキム先生の意見に賛成するが、政治的な成果を評価すべきだという意味ではユン先生の意見にも同意する。
ただし、今後の改革はますます難しくなるように思われる。
西欧の福祉国家が経験している運命の一つは、年金改革をしなければならないのに、高齢者の政治力があまりに際立っているため、給付を削減する形の年金改革が非常に難しいという点である。
○ ユン・ソンミョン博士:カン先生の意見について補足して申し上げる。
最近論争となっている公務員年金改正案にも見られるように、既得権の保護という次元から、在職者には相対的に手厚い年金制度を維持する一方、新規公務員に対してはより過酷な制度を適用するという二分化された接近を取っており、年金改革を先送りするほど、こうした現象は深まらざるをえないということである。政治的な反発を最小化するためには、年金に関わる既得権を認めたうえで改善していく方法しかないように思われる。
国会に提出された財政安定化法案である所得代替率50% - 保険料12.9%の組み合わせが、財政安定化の側面から100%満足のいくものではないのは事実である。それにもかかわらず、政界ではこれすらも合意を導き出せずにいるのが実情である。多少不十分であっても、まずは目の前の火を消すという次元から、この程度の財政安定化方策を通過させたうえで、長期的な観点から財政安定化の方策を追加的に検討することもできるであろう。
最近、日本とドイツが年金改革を通じて導入した年金財政の自動安定化装置が、具体的な代案として検討されうるであろう。今後展開される経済・社会的な環境に応じて年金給付が自動的に連動するよう法を改めておくことが、年金財政の自動安定化装置であると言える。この場合、現在の加入者にとっては制度の適用に伴う損害が軽微であり、政治的な反発は大きくないと考えられる。
しかし、出生率および経済成長の鈍化など、年金制度を取り巻く周辺環境が現在よりはるかに悪化する場合、年金財政の自動安定化装置の導入によって年金財政は安定するであろうが、年金給付が大幅に減少するという問題はあるのである。この部分については、社会的に容認できる一定額以上の年金が保障されるよう縛っておき、不足する差額については政府が税金で補助するという形にすれば、先ほどカン先生が
おっしゃった政治的な抵抗を間接的にかわす方策になりうると考える。
○ カン・ソンウォン博士:追加的に申し上げると、いまおっしゃったことは、結局、給付の保障性をバリエーション(Variation)という側面から引き下げるという話なのである。結局、安定的な給付を危険な給付へ持っていくという話であろうし、それが、もし現在のように高齢者世代が10%以下である状況であれば十分に可能な話と言えるであろうが、どのみち加入期間が短いために国民年金の恩恵をさほど受けられない方々であり、しかし、それが今後、たとえば2028年になったとき、そのとき、いま申し上げた人口構造が、また高齢者人口における政治的な性向を見たときに、それすらも容易ではないように思われる。その改革を成功裏に導入した国がスウェーデンである。
スウェーデンは伝統的に官僚たちの能力が相当に優れており、そうした合意を導き出すのに国民的な何らかのプロセスが作用するのに対し、我々はまだそれがきちんと成立していない状態である。そのため、懸念を申し上げるのである。
○ キム・ヨンハ教授:いまの議論は、給付水準を10%引き下げ、保険料を引き上げたこと自体に財政改善効果が まったくないという話ではない。 しかし、国民年金制度を見るとき、わが国において今後30年、50年、100年後の高齢化社会に適合する年金システムであるという前提があるときには、効果が15年しかなかろうと10年しかなかろうと、一歩前に出ることは、1年だけ制度を改善するとしても意味がありうる。だが問題は、現在の国民年金システムはそれ自体がわが国の高齢化社会に適合しない構造を持っているために、この程度の係数的な調整をもって我々が年金制度改革を行ったと言うのであれば
lang=EN-US> 判断の誤りでありうるということである。どの国においても、公的年金制度というものは金融商品ではない。たとえば、我々が金融商品と言えば、基本的に自分が出した金を自分が受け取る、つまり自分が出した金に利子を付けて受け取ればよいということである。そして、その金がきちんと管理されているかだけを見て、きちんと管理されていれば自分が高齢者になったときにそれを受け取ればよい、そのように一つの金融商品として見るのであれば、自分が納付した保険料に利子を付けたものの2倍以上を受け取るようすでに設計されていたのであるから、この制度自体はいますぐにでも無条件に終わらせなければならない。しかし、我々が今回、年金制度改革を行ったとしても、依然として収益比が2倍以上であったものを収支均衡させるところまで合わせたのか。そうではないのである。結局は変えたとしても、依然として自分が出したものに比べて低負担・高給付の構造をそのまま維持しており、制度の改定によって最も大きな損害を被りうる階層と言える、保険料が12.9%まで上がり給付水準50%が適用される時点で制度に加入する世代の観点から見ても、収益比は依然として1.5倍程度になる、つまり将来世代の負担は依然として増加するという構造なのである。であるならば、そうした構造それ自体に対する認識がまず前提とならなければならないということである。たとえば、現在のわが国の国民年金制度は当初から収益比が2倍、3倍で、しかも世代間再分配を行うよう設計されていた。そしてそれが、今回年金改革を行ったにもかかわらず、世代間再分配はそのまま容認している。であるならば、その世代間再分配を容認しているその制度が持つ意味は何なのか、ということに対する認識が前提とならなければならず、その認識を前提としたうえで、望ましい世代間扶養と、自分自身の能力に応じた自らの老後の備えとをどのように調和させるのかについての政策方向について、国民的合意が導き出されなければならない。ところが、いま我々の国民年金改革をめぐる議論は過去3年にわたって長く進められてきたというが、そうした内実のある議論はまともに行われてこなかった。単純に給付水準を何%削減するのか、次に保険料を引き上げるのかという観点からの話だけが進められてきたにすぎない。では、2050年になり高齢者が40%となるその時期に、高齢者世代はどうやって食べていくのか、勤労世代はどう暮らすのか...ということについて、十分な議論がなかった。現時点において、わが国が正常に発展すると仮定したとき、2050年というものを予想することができ、その予想される2050年における我々の暮らし方について、まず絵が描かれなければならず、その絵の上で国民年金制度はどのような役割を果たすのか、そして他の制度はまたどのような役割を果たすのかについての明確なビジョンがなければならないということである。国民年金制度は、公務員など特殊職域を除くすべての国民を加入対象とすることを原則としており、しかも現在、積立基金だけでも192兆ウォンにもなる巨大な基金が形成されており、今後1700兆ウォンまで増えることになって、わが国の国民経済に甚大な影響を及ぼす制度であることを前提とするならば、国民経済と国民生活の全般的な観点から、国民年金の機能と役割についての明確なビジョンがなければならない
lang=EN-US>。ところが、いまの国民年金法改正案にはそうしたビジョンがないということである。そうした合意の過程もなかった。政府は合意を導き出したというが、民主党の議員1名を含めただけで、第1野党を排除した強行採決の法案である。言い換えれば、国会保健福祉委員会の議員が20名で、そのうちウリ党が10名、ハンナラ党が8名、民主党が1名、民労党が1名であり、そのうちウリ党の議員10名と民主党1名との計11名が通過させた案を、合意した案と見ることができるのか、ということである。将来の2050年について、老後をどうするのか、それを誰が負担するのかについての国民の明確な議論があり、そうした議論の上で合意が導き出されてこそ、我々が抱える将来に対する不確実性が取り除かれうるということである。将来はどれほどうまく予測したとしても不確実性を完全には取り除けないが、現在のシステムがこのまま進むとしたときに予想されうるものが、現在の情報のもとでは明確でなければならず、そうであってこそ他の不確実性が存在してもなんとか耐えることができる
はずであるが、いま与えられた情報のもとで決定しなければならない主要な状況について、十分な議論もなく制度を改定するということは、国民年金のように不信の高い年金制度においては望ましくない。現在は、国民年金制度の機能と役割についての国民的合意ができてもいない状態であり、しかもそれに対する我々のビジョンも作られていない状態である。したがって、制度上の大きな枠組みについての合意もなく、財政改善効果が18年なのか 13年なのかといった類いの話は意味がないということである。なぜなら、我々に迫りくる将来に対する不確実性を減らしたように見えるが、どのように減らしたのかが不明確であるために、一般国民の不安はかえって増大したのである。たとえば、給付水準が引き下げられた。では我々はどう暮らすのかについて、国民の不安はさらに増大した。では、ここで不確実性が減ったと考えられるのは ひとえに国民年金制度それ自体しかない。国民年金制度それ自体だけを見たとき、収支をいくらか不均衡の度合いの小さい状態へ変えたという程度であって、その不均衡が均衡状態へ至ったというわけでもなく、その均衡状態が持続しうるというわけでもない。だからこそ、そうした部分についての議論がきちんと行われてこそ年金の計画が成り立つということである。西欧においては、そうした年金制度がすでに国家的・国民的な合意によって安定して定着した。その定着のもとで、多くの国民がその制度を支持している。そして国民年金制度を信じて暮らしている。その国民年金制度は国家の重要な制度としての役割を果たしている。そうした状況のもとでは、制度改革というものは難しいことは難しいが、制度改革を行ったとしても、その制度自体の持続可能性は国民の信頼によって保障されるということである。
ところが、わが国の場合は、すでに国民年金制度を導入してから19年になるにもかかわらず、国民の国民年金に対する信頼は底の水準なのである。国民年金に対する信頼を尋ねると、70%が否定的に答える。これは信頼が土台になっておらず、かといって、たとえば金融商品としての収支均衡化の体系でもない … 扶養であるとするならば、その前提は国民の信頼である。信頼が前提となってこそそれが成り立ちうるのであり、そうした信頼もなく、かといって金融システム的な均衡もない。だから、そうした類いの制度では、21世紀の不確実な将来を支える年金改革の方向として正しい方向ではないということである。したがって、そうした側面から見たとき、速やかに一日も早く、大統領選挙の1年前に急いで改革することが重要なのではなく、より確実な内容をもって十分な議論の上できちんとした枠組みをまず作ることが重要だということである。改革の内容は、基本的に国民が、給付水準が低かろうと保険料が多かろうと、この程度まで行けば確かにこういう姿になるのだな、自分はどうしなければならないのだな、国家はどうしなければならないのだな...ということが明確に見えてこそ、それが改革であり、それを信じることができるのであり、不確実性が取り除かれるのである。そうした点から問題を述べているのである。
○ ユン・ソンミョン博士:国民的な合意を通じて年金制度を改革すること自体については100%共感する。しかし、これに関連して提起されるべき重要な論点は、わが国の年金導入の歴史が短いために、年金制度をめぐる争点事項に対する正しい理解、および年金制度の長所について、一般国民が正しく
理解できていないように思われる、ということである。
外国の場合には、おおむね100年以上の制度運営の過程を通じて、国家が運営する国民年金制度に対する理解の幅が広いということである。自分の父や祖父が年金制度によって老後の生活を営んでいくのを幼い頃から見て育った。体験を通じて、国家が運営する年金制度が良い制度であることを知っているということである。こうした状況で、過去より少なく受け取り多く負担する年金改革を試みる場合、政府の政策に対しては激しく抵抗するが、年金制度それ自体を否定することはない
lang=EN-US>。
とりわけ政府の政策に対する不信の強いわが国の場合、政府が運営する年金政策に対して一般国民の視線が好意的であるはずがない。「年金制度、これはまた何かの名目を作って税金を巻き上げようとして作った制度ではないのか」というのが、わが国の国民の一般的な考えであるように思われる。そのうえ、自分の老後は自分で何とかするのに、なぜ政府が出てきて、ああしろこうしろと口を出すのか、ということである。
こうした状況で、年金を一銭も受け取ったことがないのに、また年金制度は改めるといい、制度を導入してから20年にもならないのにしきりに作り直しているうちに、自分が退職するときには金を一銭も受け取れないのではないか、という不信に満ちている。
こうした状況をあまりにもよく知っている政府ではあるが、かといって手をこまねいていることもできない立場である。OECD諸国のなかで最も高齢化の速度が速いわが国の場合、いま早く手を打たなければ、後の世代にあまりにも大きな負担を残すことになるからである。60年代には平均寿命が55歳であったが、いまは80歳近くまで平均寿命が延びた。民間保険と異なり、国民年金はいったん年金を受け取るようになれば、死亡時点まで年金が支給される。わずか半世紀のうちに、年金を受け取る期間が20年以上延びたのである。
目の前の火を消そうと、政府が出てきて財政安定化の方策を用意しなければならないと言うので、これがメディアを通じて一般国民に誤って伝わったように思われる。財政安定化の措置を取らなければならないと言えば、それがメディアや一般の利害関係者を通じて誤って伝わり、「基金に穴が開くらしい」として不信をいっそう募らせているのである。こうした状況で完全な社会的合意を期待すること自体が無理ではないだろうか。
キム教授が指摘した政治的合意について申し上げると、国会常任委員会を通過した法案が、ウリ党の議員たちと民主党の議員1名が賛成して通過したものであることは事実である。しかし、こうした振る舞いを非難するのに先立ち、年金問題に関してわが国の政界がどのような姿を見せてきたのかを振り返ってみる必要があるであろう。
2003年10月に国民年金法改正案が国会に提出されて以降、第16代国会ではまともに議論一つできず、第17代でも常任委員会でまともに議論もできないまま3年が過ぎた。国会議員が向かい合って真剣に年金法を議論したのは、3年が過ぎても10回にも満たない。そうしておきながら、いつも真剣に議論しようと言うのだが、あれだけの時間のあいだ国会で議論しなかったのに、何を議論するというのか分からない。
国会できちんと議論しないのは、自分たちが出した案と相手方の案が異なるために、財政安定化の方策に同意しがたいということであるようだ。しかし、どの案を採択するにせよ、財政安定化の方策は用意しなければならないのではないか。もしや、財政安定化の方策は国民に人気がないので、これよりも甘い案を作って国民の非難をかわそうという意図はないのかと、気になることが多い。
こうした文脈から、私は、わが国では年金問題がすでに政治化されたという感じを拭えない。年金改革の問題が党利党略の次元で政治化されたために、どのような案が出ても、大統領選挙あるいは総選挙での票と結びつける政治的な性向が濃厚であるように思われる。状況がこうであるため、年金の専門家やメディアの側からは、年金改革の議論を政界からは離れた脱政治化した立場から議論するのがよいのではないかという意見が提示されている。徹底した脱政治化の過程を通じて導き出された討論の内容が政界を圧迫することで、政界が改革をせざるをえない社会的圧力として作用してこそ、年金改革が可能になるということである
lang=EN-US>。
いまのこの状態で政界に任せておけば、票を意識するか、あるいは党利党略に固執して、さしたる進展はないであろう。完全な社会的合意を導き出す努力に先立ち、政界がもう少し積極的に年金問題を議論できるよう社会的な圧力を高めることが、正しい接近の方向ではないだろうか
lang=EN-US>。
○ 司会者:政府は今回、改正案を出すにあたって基礎老齢年金を盛り込んだ。2008年から平均所得の5%に当たる年金を、所得下位60%の高齢者に支給するという内容である。与党はこれを、ハンナラ党の基礎年金の要求に対する一つの折衷案として提示したと述べている。
しかし、基礎老齢年金は果たして年金なのか、それとも公的扶助なのかという性格規定から、果たして月8万~9万ウォンの年金で死角地帯を解消できるのかという問題に至るまで、多くの批判がある。
○ キム・ヨンハ教授:まず基礎老齢年金は、名称だけを見れば、ハンナラ党が主張する基礎年金への妥協案として出てきたかのような印象を与えるために、相当に努力した跡はあるように思われる。それにもかかわらず、この基礎老齢年金案は、今後の老後所得保障体系をいっそう混乱させる案だということである。第一に、基礎老齢年金制度の性格が不明確だということである。例えば、基礎老齢年金法案という個別法として立法された。国民年金法の改正ではない。国民年金と区分された制度として存在しているため、この制度が国民年金とどのような関係に設定されたのかについて明確でない
lang=EN-US>。基本的に保険料を納めていない人にも年金を支給するので、これは公的扶助的な性格を持っているが、高齢者人口の60%に支給するという点から見れば、公的扶助と言うにはあまりに包括的である。したがって、高齢者に支給される普遍的な社会手当の性格として規定することもできるが、所得把握を前提とし、しかも所得や財産を勘案して支給することになっているため、手当としての性格も明確でない。しかし、国民年金と並立的に存在しているため、公的年金でもない。性格が曖昧であるとしても、老後所得保障体系あるいは社会保障システムにおいて一定の役割を果たすのであれば、それに意味を与えることはできるが、その機能も不確実であるという
ことが問題である。
第二に、この制度を実施したときにもたらす波紋について指摘しないわけにはいかない。現在のわが国の公的年金システムを見ると、例えば公務員年金、軍人年金、私学年金のような場合には、平均の年金給付が170万ウォン程度になる。国民年金の老齢年金給付は平均20万ウォン程度にしかならない。そして、公的扶助による1人基準の基礎保障給与は45万ウォン程度である。経過的な年金制度と規定される敬老年金は3万ウォン~5万5000ウォンが支給されている。ところが、基礎老齢年金額は8万9000ウォンを支給するよう規定している。8万9000ウォンは、まず国民年金の給付と衝突する側面がある。国民年金で最低年金を受け取る給付が8万ウォン台後半である。つまり結局、年金保険料を5年納めて加入した人と一銭も納めていない人がいずれも8万9000ウォンを受け取るとき、年金保険料を納めた人との公平性をどう説明するのかということである。そして、この制度は所得把握を前提としている。ところが、高齢者のうち80%は事実上所得がない。ところが、そのなかから60%を選び出して年金を支給しなければならないので、結局20%に相当する人はいかなる年金も受け取れなくなる。そうなると大部分の人が年金を受け取るのに、年金を受け取らない20%の人は高所得者なのだろうか。実際はそうではない。なぜなら、公務員年金や軍人年金、私学年金、高い所得を受け取る人がいるのであって、その中間に中途半端に挟まれた20%が受け取れないのである。それでは、その20%は不満を持たないのかという話である。隣にいるある高齢者は年金を受け取り、保険料を一度も納めたことがないのに年金を受け取るのに、自分にはなぜ年金をくれないのかと言われたとき、それに対して国家がどう対応するのかということである。所得把握も問題である。例えば、財産があるからといって支給しないことがありうるというが、その財産というものが実は曖昧なのである。自分が入って住んでいる家がぽつんと一つあるだけで、それを財産とみなし、ほかに所得もないのにその年金を支給しないとき、その高齢者たちの不満のすべてをどう甘受するのかという話である。だからといって、国民年金を受け取る人は自分が納めた金だけを受け取ったのだろうか。そうではないのである。例えば、20万ウォンの年金を受け取る人を例にとれば、5万ウォン程度は自分が納めた金を受け取るのであり、15万ウォンは将来世代から転嫁されて受け取るものなのである。それでは、公務員年金で170万ウォンを受け取る金は、自分が納めた分だけ受け取る金なのだろうか。実際に突き詰めてみれば、そのうち50万ウォンは保険料として納めた金で受け取るものだが、残りの120万ウォン程度は国民に、将来世代に転嫁して受け取っているのである。そうした側面から見れば、実はこの制度の導入によって、潜在していた国民保障体系の公平性の問題が露呈し、深刻な社会問題を引き起こしかねない。私は基本的に、社会保障制度というものは一銭を使うにしても、それが国民統合に寄与しなければならず、そして国民統合に役立つからこそ社会保障制度が必要なのであり、だからこそ市場経済体制において我々に社会保障制度が必要な理由も、まさにそこにあるのである。市場経済体制の下で生じるそうした対立を再び縫い合わせるために必要なのが社会保障制度であるが、わが国の社会保障制度は実のところ、むしろ対立と分裂をいっそう誘発しており、基礎老齢年金制度は高齢者世代において対立を爆発的に増幅させかねない雷管のような役割を果たしうるという点で、制度の導入に必要な予算を調達できるかどうかよりも
国民統合に寄与するものではないという点で問題があると考える。
第三に、技術的な問題もある。基礎老齢年金の給付を支給するにあたって、国民基礎生活保障の給与を受けている人には、基礎老齢年金を当然に8万9000ウォン重複給付する。実は、国民基礎生活保障制度の公的扶助対象者にこの給与が45万ウォンだとすれば、 45万ウォンは生計費を計算して作られたものなのである。そこにさらに8万9000ウォンを上乗せするというのは重複給付に当たり、予算をかえって過重に使用するという問題点がありうるということである。そして、この年金制度は国民年金とも重複給付が可能なように作られている。そうなると結局、国民年金の給付水準を50%引き下げたといっても、実際には基礎老齢年金の重複給付を許容することで公平性の問題を生みかねない。だから、その制度の性格が不透明であること、そして社会統合に寄与しないこと、技術的にも誤った重複の問題があるという点で、誤った制度だと考える。
○ ユン・ソンミョン博士:基礎老齢年金がまともな制度なのかを評価するためには、まず年金制度の外へ一度出てみる必要があるように思われる。平たく言えば、殻の中から殻を破って外に出てみなければならないということである。
年金問題から始まった論争が年金問題にとどまらず、わが国の全般的な社会問題と結びついて論じられるからである。近ごろの年金論議を見ていると、年金制度一つで社会的に厄介な問題をすべて解決しろという注文が多いように思われる。所得再分配の問題から始まって、経済成長の果実を分け与え、さらには社会統合のための制度にならなければならないという注文が、まさにそれである。船頭多くして船山に上るという諺のとおり、年金制度一つに あれこれと注文が多くなれば、制度は妙な方向へ流れていかざるをえないであろう。
一部の主張のように、政府が税金を徴収してわが国のすべての高齢者に月20万~30万ウォンを支給する租税方式の基礎年金制度に比べれば、政府与党が主張する基礎老齢年金は問題が多くならざるをえない。単純に基礎年金と基礎老齢年金を比較してみれば、穴だらけの制度ということになる。それならば、制度そのものがすっきりした基礎年金制度を、なぜ政府は導入しようとしないのだろうか。これについての問いから始めることが、正しい出発点になるように思われる。
○ 司会者:ハンナラ党の基礎年金についての議論は別の主題として分類されているので、まずは基礎老齢年金について、キム教授が提示したテーマへの反論をしていただきたい。
○ ユン・ソンミョン博士:簡単に基礎老齢年金を評価すれば、相当部分が政治的圧力によってやむをえず作られた制度だということである。制度そのものが明確な論理的根拠に基づいて作られたというよりは、政治的な妥協案として作られた案だという話である。
先ほど私は殻を破って出る必要があると述べたが、その理由は、もともと論争になっていた内容と、現在論争になっている内容とが完全に入れ替わってしまったからである。
国民年金発展委員会で財政安定化方策を議論していた頃までは、メディアなどが常に大書特筆していたのは「国民年金に穴が開く」ということであった。少なく払って多く受け取る制度として導入された以上、いつか基金が枯渇するのは当然である。40年以上が過ぎてようやく基金に穴が開く制度であるにもかかわらず、そのまま放置すれば後の世代の負担があまりに大きく、必要以上に年金制度に不安を感じる国民が多いため、財政安定化方策を用意したのである。
ところが、苦労して財政安定化方策を作って公表したところ、思いもよらぬところから流れ弾を受けた。わが国の国民年金において当面急を要するのは年金財政の安定ではなく、死角地帯の解消だというのである。すなわち、現在の高齢者層と、年金保険料を納められず年金を受け取れない可能性が高い人々に対する対策の用意が急務だということである。
すぐにも国民年金に穴が開くと大騒ぎしていた人々はみなどこへ行ったのか、死角地帯の問題で国民年金を揺さぶるのである。一方で、死角地帯の解消策を出さなければ財政安定化方策には絶対に同意できないという主張がなされたため、妥協案を出さざるをえなかったのである。
政府は当初、高齢者全体のうち低所得の高齢者30%に対して、税金を徴収して公的扶助の形式で支援しようという提案を行った。これに対して、受益対象が低すぎるという批判が提起された。これに苦慮した政府は、それならば高齢者全体のうち所得の低い高齢者を中心に45%程度に、税金を徴収して年金を支給すると再び提案した。政府の財政状況を考慮すれば、これ以上は難しいということである。ところが、これすらも与党および利害関係者から批判を受けたのである。
多く払って少なく受け取る国民年金の財政安定化方策に負担を感じた与党が、政府に圧力をかけて受益対象を大幅に増やすことになったのである。与党と政府の協議結果、高齢者全体の60%に月8万9000ウォン(2008年基準で国民年金A値の5%)を支給することで合意し、いわゆる基礎老齢年金制度と名づけられたのである。このような過程を経て制度が作られたために、制度に抜け穴が多いのも事実である。
高齢者の60%に支給する制度を選別的な公的扶助制度と呼べるのかという批判(対象者が多すぎるという側面)から、8万9000ウォンが高齢者の安定した生活のために適切な水準なのかということに至るまで、多様な批判が提起されている。
こうした批判はいずれも妥当性があるのが事実である。しかし、何と比較して批判しているのかが明確でなければならないであろう。
対象者が60%にもなる制度を選別的に適用される公的扶助制度と言えるのかという批判に対しては、対象者をしきりに増やせと言うので、ここまで増えたのである。また、支給するなら生活が可能なように多く支給すればよいものを、8万9000ウォンしか支給しないのかという批判に対しては、国民年金の受給者との公平性を勘案したためである。特例条項によって5年間保険料を納めて年金を受け取る国民年金加入者の年金額が、9万ウォン近くなのである。保険料を一銭も納めていない人が受け取る額よりも、保険料を納めて年金を受け取る人の年金額が多くなければならないという論理を適用したのである。
それでは、なぜ政府は批判ばかり受けるこのような制度に固執するのだろうか。理由は二つである。一つは長期的に租税方式の基礎年金より費用が少なくて済むこと、もう一つは国民年金制度が発展するにつれて対象者を減らすことができるという長所があるためである。
わが国で死角地帯の問題が深刻な理由は、現在の高齢層の場合、国民年金に加入する機会がなかったためである。現在、65歳以上の高齢者の13.5%程度が国民年金の支給を受けている。ところが、この比率が2030年頃には高齢者全体の55~60%まで増えると予想される。今のところ死角地帯の問題は深刻であるが、年金制度が成熟段階に入れば相当部分が緩和されうるということである。
したがって、死角地帯の問題もこうした文脈から接近する必要があるということである。まずは目の前の火を消すという次元で、十分ではないとしても高齢者の60%に基礎老齢年金を支給しつつ、国民年金受給者の増加の推移に合わせて基礎老齢年金の受給者比率を減らしていくという腹案が隠されているのである。国民年金の受給者が増えるにつれて、2030年頃には基礎老齢年金の受給者比率が27%前後へ著しく減少すると見込まれている。
税金を徴収して支給する基礎老齢年金の受給者比率が減少するにつれて、後の世代の負担も相当部分を軽減できるであろう。受給者数を弾力的に調整できるよう、公的扶助制度として導入するのである。租税方式の基礎年金は基礎老齢年金より制度としてはすっきりしているが、権利として年金が支給されるため、一度導入すれば受給対象者を減らしにくいという問題がある。
こうした理由により、一見すると問題だらけのように見える基礎老齢年金制度が、超高齢社会に効果的に対処しうる制度であると判断される。
○ カン・ソンウォン博士:キム先生が指摘されたのが所得把握の問題である。実際、わが国の徴税行政というものが、いまだに自営業者の所得をきちんと把握できていないほど相当に問題がある状況で、ここに所得審査を入れるということが行政的に相当大きな問題を引き起こすであろうという意見には、私も同意する
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ただし、所得審査を経た基礎年金制度というものはそれほど見つけにくい制度ではなく、OECD諸国30か国のうち約18か国がターゲティッド(targetted)プログラムとして運営している。言い換えれば、ある程度は審査を経ているという話である。そして、約11か国が審査のない状態ですべての人に支給する形で運営している。二つが重なる場合もある。
したがって、行政的な条件が整い、所得審査の公正性が保障されるのであれば、高齢者年金制度や基礎老齢年金制度がこれほど見つけにくい制度ではないということを、まず申し上げたい。
二つ目に、基礎生活保障制度との重複の問題を述べられたが、基礎生活保障制度は、まず全 国民を年齢に関係なく包括する制度である。
したがって、条件が少しでも良くなれば基礎生活保障制度の保護から抜け出して労働市場に参加できることを前提に運営される制度だと理解している。
もちろん、障害者や、極端に労働市場へ参加することが難しい、つまり人的資源が足りない場合の人々には例外となるであろうが、そうしたわけで、最近の高齢者の場合には労働市場への参加が制限されているため、追加で給付を行うことがそれほど論理的に大きく矛盾するわけではない、というような話はできるように思われる
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最後に、さまざまな年金制度と受給の公平性について多くを述べられたが、まずは国民年金の死角地帯の問題、あるいは国民年金が現在の高齢者に何の助けにもなっていないという問題、この二つの問題が、実は国民年金があまりに手薄だという話をする共通した根拠であった。
ところが、国民年金というものは実は、長期間にわたって保険料を納付できる人々のための制度だと言える。
現在の国民年金はそのようになっている。今後、国民年金がどうなるかは社会的な議論を経て変えていくことができるであろうが、現在の国民年金制度そのものの設計は、まずそうした形になっている
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そのため当然、労働市場への参加を継続的にできない人々は、国民年金から疎外されざるをえないという構造的な性格を持っているのである。そのため、納付年限を経ない、ある低い層の老後所得保障制度としての基礎老齢年金制度が提示されたのである。
その趣旨に合致するのであれば、結果として財政が許す限りにおいて、より保護を必要とする人々に優先的に資源を配分するというのが、まさに所得審査を経た基礎年金制度の本来の意味だと言えるであろう。
ただし、わが国の行政力において、とりわけ60%というものをどのような基準でどう設けるのか。高齢者になると、フローとしての収入がほとんどなくなる状況になる。言い換えれば、財産の把握を基準にしなければならないということである。財産を基準にして、現在、地域加入者の健康保険料を課しているが、それに対する反発がどれほど激しいかを我々はよく知っているではないか。
したがって、この部分について何らかの行政的な代案もないまま、ただ60%にだけ支給すると述べたとき、当然その60%の所得把握ができるのかできないのかを、どう信じろというのか。
それならば、基礎生活保障制度の死角地帯と言われる階層に該当する高齢者についても、また、どうするのか。こうした問題は制度を作る人々が必ず解決しなければならない宿題であり、宿題が解決されなければ、公平性の問題において大きな問題を引き起こしうる根源だと言えるであろう。
○ 司会者:今度は、平均所得の5%という金額そのものに焦点を絞って、一度議論してみたい。果たしてこの金が死角地帯の解消の効果を期待するに足る金額なのかという点について、多くの人が疑問を抱いている。ところが政府の推計によれば、5%を支給するために2030年には19兆1164億ウォンという金がかかることになっている。
もちろんこれは、その間の物価上昇率を勘案していないものであるため、いま現在の19兆ウォンとは比重が同じではないが、いずれにせよ多額の予算であることは明らかである。死角地帯の解消という機能すらない金を支給するために、こうした予算を使うことが正しいのかという問いを投げかけてみたい。
○ ユン・ソンミョン博士:基礎老齢年金の給付が国民年金加入者の平均所得(A値)の5%に設定され、この水準が老後所得保障の死角地帯の解消という次元で適切な水準となるのか、また、適切とは言えない給付を支給しながらも国家が負担する額は途方もない金額であるのに、この制度が果たして意味のある制度になりうるのか、という批判は少なくない。
都市地域に居住する高齢者などの場合、安定した生活のためには到底足りない金額であることは間違いない。すでに言及したとおり、A値の5%(08年基準で8万9000ウォン)を算定せざるをえない背景は、国民年金、つまり保険料を納めた社会保険制度である国民年金制度と無拠出制度との間の公平性を考慮したからである。本人が若いころに税金を納めるなど、別の方法で国家に寄与はしたであろうが、いずれにせよ保険料を納めて受け取る年金額(国民年金)よりも、保険料を納めずに受け取る年金額(基礎老齢年金)の方が多いとすれば、公平性の次元で問題になるということである。こうした問題があるために、ひとまず給付水準をこれ以上高めることはできない。
国民年金の導入の歴史が長くなり、実質加入期間の増加に伴って国民年金の平均支給額が15万~20万ウォンの水準になるのであれば、基礎老齢年金額を上方調整することもできるであろう。もちろん、それに伴う政府の財源負担は相当なものになるであろうが。
60年代末以降に産業化を始めたわが国の場合、きわめて短い時間のうちに所得保障など多くの問題を同時に解決していかねばならない国家である。批判する立場からはあれこれすべてを批判できるが、一つひとつ解決していく立場からは困難があるということである。このような状況のもとでは、弥縫的に解決せざるをえない部分も相当に多くありうる。
A値の5%を支給することは、明らかに死角地帯の解消という次元では不十分な金額である。たとえ少額であっても、農漁村地域の高齢者にとっては少なからぬ恩恵となるであろう。とりわけ現金給付のほかに他の現物給付が効果的に支給されるとき、それなりの効果があるものと考える。
しかし、A値5%の妥当性をめぐる論争は、いま目の前のことよりも、今後この制度をどう運用していくのかの方がより重要な問題になるであろう。敷衍すれば、いまはそうだとしても、長期的にこの水準が適切であるのかということである。
私は長期的には、基礎老齢年金の受給者の対象範囲は絞りつつ、給付水準は上方調整することが望ましい方向であると判断している。高齢者全体の60%という対象範囲を高齢者全体の30%程度へと大幅に絞りつつ(国民年金受給者の増加の推移に合わせて)、最低限、基礎的な水準の生活が可能になるよう給付を引き上げることが望ましいであろうという話である。しかし短期的には、国民年金との公平性の次元から、これ以上支給することは現実的に難しいという点も強調しておきたい。
○ キム・ヨンハ教授:国民年金加入者の平均所得の5%という基準の根拠が不明確であるように思われる。政府の言う5%の根拠は、現在政府が増税をせずに負担できる最大の限界が、高齢者の60%に5%を与えることだ、と言っているにすぎない。そうした限界という概念が恣意的である。もちろん受け取る側の立場から見れば、受け取らないよりは8万9000ウォンを受け取る方がましであることは確かだが、8万9000ウォンが高齢者に及ぼす影響は小遣いの問題を解決する程度であろうと考える。ところが、基礎年金を支給しようという際に重要なポイントの一つは、単に高齢者の所得保障制度を作ろうというところだけにあるのではなく、高齢者の扶養を社会的に共に担い、個々の勤労世帯における親の扶養負担を軽減することで、家族間の親の扶養に
関連する対立や不和を外へ取り出してやることによって、家庭を生かしつつ勤労世代の負担を軽減し、全体として見れば中間階層の勤労世代の所得の低下ないし貧困を防ぐことに寄与する点にある。実際、1人当たり毎月8万9000ウォンという金は、全体として3兆ウォン程度の予算がかかるとしたとき、3兆ウォンは少ない金ではない。 国民の負担3兆ウォンは、我々の国民生活に及ぼす効果に比べて、負担する立場からはより大きく感じられるであろうという話である。たとえば、金を少し多く負担してでも家計の負担を軽減するものであるならば、それはむしろもう少し多く負担してでも全般的な名分を生かしうる可能性があるのに、中途半端な給付の支給は予算負担だけを高めたとしか感じられず、家計にとっては、ひとまずたとえば所得の確保において劇的な役割を果たせないために、結局は社会的に負担する人と受け取る人との間で社会的な不和をいっそう助長しかねないということである。どのような制度であれ、それが持つ意味は明確でなければならない。与党の基礎老齢年金が持つ社会制度としての役割は明確でなければならないのに、すなわち、この制度が高齢者世帯でどのような役割を果たすのか。高齢者を扶養する 世帯においてどのような順機能を果たすのかが明確でない。したがって、このような制度へ進むことは金をよけいに使うだけであって、社会保障制度の発展に大きく資することはなく、国民統合に逆行するものであると、あらためて申し上げたい。
○ カン・ソンウォン博士:そこで、いまキム先生は、8万9000ウォンが扶養の負担を軽減する役割を果たせていないのではないか、したがって、高齢化は実のところその家族が負担を負っているのと同じであるのに、家族の負担を軽減できていないのではないか...そうしたお話であるように思われ、ユン先生は、ひとまず短期的にはこのように対象を拡大し給付を下げる状況のもとで財政負担を最小化し、長期的には対象を絞って給付を引き上げ
lang=EN-US>、国民年金を拡大する方策へ進むのがよいのではないかと述べた。
キム先生のお話について言えば、2006年の高齢者統計を見ると、すでに65歳以上の高齢者のうち、高齢者どうしの世帯、または高齢者単身世帯の比率が51%を超えている。
したがって、いま我々は、すでに家族という個体が高齢者を扶養している役割がますます弱まっていく社会へ向かっていると考えることができる。したがって、8万9000ウォンが、もちろん高齢者世帯の生計費を完全に賄うことはできないであろうし、扶養義務を軽減することはできないであろうが、ひとまず高齢者どうしで暮らす世帯にいる高齢者にとっては、せめて少しは息がつけるようにする、そうした役割を果たしうるということである。
第二には、8万9000ウォンはたいした額の金ではないが、いま国民負担率が1980年代末から現在までかなり速い水準で上昇してきたために、それに対する抵抗がある。
そこで、財源を確保することが容易でない状態であるために、こうした苦肉の策を用いざるをえない政府の立場があったのではないかと考える。
もちろん、ここであらためて強調するが、国民年金という制度は現在の高齢者にとっては相当に不十分な制度である。そのため、現在の高齢者の福祉をある程度引き受ける制度が必要であることは事実である。にもかかわらず、我々はいま、そうした制度が必要であるということについての合意が成立していないために、このような形で奇形的な制度が出てこざるをえないのだと考える。
したがって、この制度はそれ自体としては著しく不十分である。所得保障のためにも不十分であり、次に、行政的に誰には支給し、誰には支給しないかを選り分けることも不十分であり、
この案が通過したとしても、施行の過程で是非をめぐる争いが絶えないであろうし、今後より多くの論議が必要であると考える。
そこで長期的には、国民年金は所得基盤が中下位層ではあるが、ある程度の職業の安定性が確保された人々の老後所得を準備する制度として定着させ、そうでない人々に対してはこの基礎年金制度が役割を果たすという形で、二元化された制度へ進むべきではないか、そのように考えている。
○ 司会者:最近、公務員年金改革がホットイシューとなっている。一般の国民は、なぜ恩恵の多い公務員年金は放っておいて国民年金だけを問題にするのかと不満を抱いている。ところが大統領は年頭の演説で、国民年金を改革してこそ公務員年金を改革できると述べた。どちらが正しい話なのか。
○ キム・ヨンハ教授:実のところ私は、基本的に公務員年金は給付水準も国民年金より高く、財政状態も国民年金より深刻であり、しかも加入対象者もわが国の社会指導層の人士が加入している制度であると考えたとき、どの側面から見ても国民年金を公務員年金より先に改革せねばならない理由はないと見ている。国民年金を先に改革せねばならないという根拠がまったく理解できない。状況の論理として、国民がまず犠牲になってこそ既得権層がやむなくついてくるであろうという、そうした論議は国家の指導者が口にしてはならない話であり、国家の指導者がそのような話をするというのは、本当に恥ずかしい話である。論理的に見れば、国民年金よりも公務員年金の改革をせねばならないということに何の問題もないにもかかわらず、それを逆にせねばならないという論理で、国民をどうやって説得できるというのか
lang=EN-US>。説得はできないと見ている。
最近、公務員年金制度発展委員会が公務員年金制度の改正案を出したが、その案は行政自治部の政策担当者らが論議の過程に積極的に参加して作られた案であるため
政府案の草案という性格を持つ。今回の発展委員会の建議案は、内容的にも国民年金法改正案より不十分であるということである。国民年金の改正案は保険料も引き上げ、給付水準も削るようになっている。公務員年金の改正案は保険料は引き上げているが、給付水準を削る点においてはきわめて微弱である。とりわけ既存公務員に対する給付率の削減はきわめて微弱である。現在の公務員年金制度の改正案は 新規公務員に対しては改革効果を強く、既存公務員に対しては改革効果を弱く持っていくという特徴を持っているが、論理的に合っていない。年金改革において最も重要なポイントの一つは、ある時点で年金が改革されたのであれば、改革以後の時点については、既存公務員の追加の加入期間と、次に新規公務員の加入期間における年金算定式が同一であることが望ましい
lang=EN-US>。現在は改革以後の時点についても、既存公務員には高い給付率を適用し、新規公務員には低い給付率を適用している。政府は「収益比は同じである。既存公務員であれ新規公務員であれ、負担するものに対して受け取る比率は同じである。」と言う。改正案によれば、既存公務員は中負担・高給付であり、新規公務員は低負担・中給付である。結局は不均衡であることに変わりはない。そして収益比が1.7ないし2.0程度で似ていると主張するが、実際には同じ収益比であっても、給付水準が高い水準で設計されたものと低い水準で設計したものとでは、国民負担の程度が異なる。たとえば高い水準で設計されれば、その分だけ我々国民が税金でより多く納めねばならない。その保険料を政府が半分ほど負担せねばならないため、それはすべて国民の負担である。つまり高負担で設計されて保険料をさらに引き上げれば、その分だけ国民負担をさらに高めることになる。単純に収益比が同じだからといって同じになるわけではない。そのうえ将来世代についても財政均衡案ではなく、依然として制度改革をしたとはいえ収益比が1.7~2.0であるため、結局は自分が納めたものの2倍程度を受け取るようになっている設計案である。そうなると、より多く受け取る部分の分だけ将来世代に転嫁することになっているが、中負担・高給付として増加させれば、その分だけ将来世代により多く転嫁することになる。そうした側面から見れば、この改革案は、そもそもボタンを掛け違えていると申し上げることができる。とりわけ年金改革においては二つのポイントが重要であると考えるが、一つのポイントは、今回の年金改革で最も重要な特徴は先進的な構造へ変わったということである。現在の公務員年金制度は、国民年金的な性格と退職金の性格とが一緒にくっついている。ところが、これを今回の機会に明確に区分し、国民年金的な性格と退職金的な性格とに分けたということが大きな意味を持つ。しかし、この年金改革の意味を持たせるためには、退職金的な性格として分けた部分は退職年金として設計してやらねばならない。退職年金として設計したということは、単に一時金を年金として与えるという点に意味があるのではなく、保険料を積み立てて年金を支給する際に必要な金額は政府が負担するのではなく、勤務期間の間に着実に事前積立を行わせるようにすることにこそ、退職年金としての意味がある。ところが、今回の政府案を詳しく見てみると、退職金制度を設定してはいるが、退職年金制度ではなく事後支給制度である。つまり、結局は事前に保険料がまったく積み立てられていない状態で制度が運営されるということである。そうでありながら、いま政府は公企業や企業に対しては退職年金制度を勧めている。そこで「退職年金を実施せよ。事前積立制にせよ。」と言いながら、いざ公務員については退職金制度を作りながらも退職年金制度を設計しなかったということである。これは結局、現政府が将来の政府へ負担を転嫁することであり、現在の国民が将来の国民へ負担を転嫁することである。これは、我々が年金制度改革の最も基本的な趣旨である、可能なかぎり事前積立を通じて将来の負担を減らさねばならないという、その目的から外れている
lang=EN-US>。
そうした側面から、この部分は調整されねばならないと考える。
次に第三には、年金受給者はこの制度がどう変わっても被害はない人であるが、実際には年金受給者も多少は犠牲を払わねばならない。その犠牲を払う部分が何かといえば、年金の部分を計算する際、いったん最初の年金金額から、毎年が過ぎていくにつれて物価や賃金が上がるため、それに合わせた連動装置を持っている。それを物価上昇率で行うのか、賃金上昇率で行うのかによって、我々が実際の価値を保障する程度が変わってくるが、もともと我々の一般の国民年金は物価上昇率で連動するようになっている。一方、公務員年金は2000年以前までは賃金上昇率で連動するようになっていた。ところが2000年に年金改革を行って物価上昇率で連動するようにし、国民と同じになったのだが、これが2003年に改革をやり直して、物価上昇率のほかに賃金上昇率の一部を反映するようにする部分があった。逆改革が起きたのである。今回の2007年の年金改革案では、可能であれば再び一般国民と同一の物価上昇率へ変えてやることが必要ではないかというのが専門家たちの考えであったが、今回の年金改革案の内容を見ると、賃金上昇率の反映部分をむしろ
制度化して、賃金上昇分による配分比率を30%とした。もちろん漸進的に低くなり、30年後にはなくなるが、あまりに遅い。これもまた既得権をあまりに守ろうと努めるあまり、我々国民の犠牲ばかりをより強いることになるのではないかと思われる。名分は基本的にこうしたものである。いま現在の年金受給者の既得権を保護するためには、そうすることが不可避であるということであるが。公務員年金の平均年金給付は170万ウォンであり、国民年金の平均給付は20万ウォンである。170万ウォンの年金を受け取る人に対しては物価上昇率に加えて賃金上昇率まで一部反映して調整せねばならないと主張しながら、20万ウォンを受け取る人は物価上昇率だけで調整してやればよいということになる。 これは説得力が低い。そこで、少なくとも今回の年金改革案において、年金の連動装置は物価上昇率で行うことくらいは、最低限譲歩せねばならないのではないかと考えている
lang=EN-US>。
○ ユン・ソンミョン博士:最近、福祉部長官が、長官職を退くまでに公務員年金改革が停滞するようであれば、国会議員の資格で公務員年金法改正案を発議すると述べ、波紋が少なくなかった。
福祉部長官が公務員年金改革が早く行われてほしいと述べたのは、よくご存じのとおり、財政不安定の問題がはるかに深刻な公務員年金は放っておいて、基金枯渇時点まで40年も残っている国民年金に先に手をつけるのか、という一般国民の感情を代弁した発言であるように思われる。
反面、国民年金が先に改革されればよいという大統領の発言の趣旨は、公務員年金より遅れて導入された国民年金制度が改革された場合、公務員年金の利害関係者による既得権の主張が難しくなるのではないか、という意味であるように思われる。敷衍すれば、相対的に財政不安定の度合いが小さい国民年金をすでに二度も手直ししたのだから、公務員年金もこれに相応する財政安定化方策を受け入れるべきではないか、という社会的圧力として作用するであろうという話である。
私の見るところ、国民年金を先に改革すべきなのか、それとも公務員年金を先に改革すべきなのかは 消耗的な論争であるように思われる。各制度が置かれた環境を冷静に評価し、制度の条件に合った方向へ一日も早く制度を直していくことが望ましいであろう、という話である。
ここからは公務員年金改革案に対する私の立場を申し上げる。
私が公務員年金発展委員会の専門委員として仕事をしているが、制度改善案はまだ100%確定したわけではないと承知している。発展委の建議案をもとに、多様な意見集約の過程を経て最終案を用意することになるようである。
発展委の建議案が公開されて以降、反応は大きく分かれている。メディア、市民団体からは、これが改革案なのか、名ばかりの改革案ではないのか、という批判が提起されている。反面、公務員労組など公務員年金の利害関係者は、改革ではなく改悪であるという立場である。
発展委の専門委員として参加した私が発展委の建議案についてとやかく言うのは適切でないかもしれないが、私なりの判断では、二つの面で発展委の建議案が批判を受けているように思われる。
第一は、在職者と比較したときに新規任用者の給付削減の幅が大きすぎ、新規任用者にのみ負担を転嫁するという批判である。第二に、改革案があまりに漸進的であるため、改革による実益が大きくないかもしれないという批判が提起されている。
発展委の建議案によれば、在職者は現行の公務員年金制度に残る代わりに、漸進的に給付を削減し(給付乗率2.3%を1.7%へ下方調整)、保険料を引き上げて収益比を1.7に合わせることになっている。反面、新規公務員は公務員年金制度に残しつつ、国民年金と同一水準の所得代替率と保険料を負担する別途の制度を適用するというものである。新規公務員の年間の給付乗率は国民年金改正案と同一の1.25%を適用し、在職者の1.7%とは相当な差がある。
在職公務員に比べて新規公務員の給付の下落幅は大きいと予想されるが、国民年金と比較した場合には依然として有利な制度である。なぜなら、所得再分配機能がある国民年金とは異なり、公務員年金は所得比例年金として維持されることになるからである。国民年金の加入者の年金算定基準となる平均所得が月160万ウォン程度であることに照らせば、所得比例年金として運営される公務員年金の場合、同一の所得代替率を適用する場合にも高い額の年金額が予想される。公務員の平均所得が国民年金より高い水準であるためである。
公務員年金の制度改善に関する研究委託を遂行したKDI報告書に参加した研究陣は、新規公務員もまた国民年金の加入者と同一の制度の適用を受けるべきだと主張しているが、私の個人的な判断では、当分のあいだ国民年金と分離して運営するのが現実的であると考える。いますぐ国民年金に編入させる場合、公務員集団の内部での年金額の差があまりに大きいためである。この場合、同一の職場のなかで年金によって相当な違和感が醸成される可能性が高い。しかし中長期的には、公務員もまた国民年金制度に編入されるべきであろう。
一方、公務員の在職者に適用される制度改善案は、財政安定化の次元ではやや不十分だというのが私の個人的な見解である。とりわけ在職者に適用される所得代替率の年間乗率1.7%は、少なくとも1.5%以下へ下方調整されてこそ、新規公務員および国民の同意を得られるのではないかと考えられる。また、受給者に適用される年金の連動方式もまた、あまりに長期間(30年)にわたって物価連動へ転換することになっているが、これもまた転換期間を大幅に短縮しなければならないであろう。
年金制度の改善案を準備している政府は、国民に奉仕する立場から国民が納得しうる制度改善案を用意しなければならないという立場と、公務員の使用者として公務員の老後生活に責任を負わねばならないという、相反する二つの立場にさらされている。
このように相反する立場を調整しなければならない立場では、どちらか一方に偏った極端な政策的代案を選ぶことは現実的に難しいように思われる。したがって、財政安定化のための制度改革の方向性がきちんと定まったのであれば、不十分な部分を補完する次元で制度を改善することが正しい接近法となるように思われる。
○ カン・ソンウォン博士:短く申し上げれば、どちらが先かということである。当為として言えばキム先生の言うとおりである。公務員は現在、職業市場が不安定ななかでも相対的に安定した職業を享受しており、また俸給も相当に上位へ調整されたため、もはや就職したときに俸給を低く受け取ることを年金で埋め合わせるという名分がなくなったのである。
そこで、公務員が公務員年金を先に改革するのが正しいであろうと語ることはできるであろうが、現実には政治的な限界が存在する。
公務員というものは均質的な利益集団だということである。
均質的な利害集団が存在しながら政府を相手に交渉を行うときには、非均質的な、利益集団を補助する集団に比べて、相当に交渉力を有利に運ぶ場合が多い。例えば、OECDの23の西部ヨーロッパ諸国のうち13か国、約60%にあたる国が公務員年金を分離して運営している。多くの場合、条件もより有利である。国民年金とは異なり、制度の沿革が古いために、自分が入社する ときにその契約を結んで入り、その契約を自分なりにすべて履行したのに、なぜ約束を守らないのか、というそれなりの名分がまたあるのである
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そのため、ますます難しくなり、改革が後ろへ押しやられるのである。
当為として見れば前に進むのが適当であろうが、現実には困難があるのである。
第二に、改革案についてはやむをえず大きく後退したと考える。まず連動制の部分について、年金というものが生活水準をある程度保障するというところにとどまるのであれば、購買力を保障するのであるから、当然に物価連動となるのが正しい
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ところが、これを賃金と連動させる理由は何かといえば、いま働いている世代と、その次に引退する世代の所得比を合わせようということである。
特別に何らかの正当性を強いて挙げるとすれば、そうした話もありうるであろうが、一般国民もすでにそのような特権を放棄している状況で、公務員年金にさらに固執するというのは、私の見るところ、話にならないと言えるであろう。
しかし見通しを述べるとすれば、それでも公務員年金は国民年金よりも改革が非常に難しく、時間もはるかに多くかかるであろうということであるが、対応する人々が異なり、そもそも公務員年金そのものが、公務員を採用するときに国家が公務員に提供する賃金パッケージに入っているのである。つまり、採用条件に入っているという話である。
○ 司会者:おおむね政府案に対する評価は一区切りついたようである。今回、年金改革案が通過したとしても、ほどなくして再び年金改革の必要性に直面するであろうという見通しが多い。年金改革をすると言いながら、これまで3年以上にわたってあらゆる社会的な消耗を経なければならなかった。保険料率と給付率の調整が必要になるたびに、毎回このような騒動を経るというのは、実のところ恐ろしいことである。根本的に、将来にわたって持続可能な保険料率と給付率はどの程度の水準なのか。
○ ユン・ソンミョン博士:客観的な事項であるので、私がまず申し上げることにする。
ただ一度の年金改革によってすべての問題を解決することはできない。変化する社会環境に合致するよう、年金制度に手を入れ続ける必要があるということである。
ところが、わが国ではこうしたことを申し上げるのは非常に慎重を要する。政府政策に対する不信が大きい状況で、しきりに年金制度を直すと言えば、その制度は信じられないのだからいっそ制度を無くしてしまおうという主張が説得力を得ることもありうるからである。
本論に先立ち、ドイツの話を少し申し上げたい。110年余り前、ドイツのビスマルク宰相が60歳から年金を受け取る制度を導入した。当時のドイツの平均寿命は45歳であり、いったん年金を受け取ることになった人も、平均的には5年以上年金を受け取れないまま死亡したということである。
反面、我々の事情はどうか。60年代の平均寿命55歳から、いまは80歳へと急激に増加した。それでいて、60歳から年金を受け取るよう設計されている。年金を受け取る人はよいであろうが、20年間受け取る年金額を誰がすべて負担するのか。したがって、平均寿命が延びた分だけ年金の支給期間を縮める方向で制度を直さねばならないであろう。
このような文脈から眺めてこそ、持続可能な保険料と給付率についての話が可能になるように思われる。国民年金の導入の歴史が浅いわが国の場合、いますぐ給付率を大幅に削ることはできない。年金制度である以上、食べて暮らせる程度は支給しなければならないからである。しかし制度が成熟段階に入れば話は変わる。理論的な所得代替率と実際の所得代替率との乖離が相当に縮まることになるからである。
これに加えて、05年末に導入された退職年金制度もまた、うまく発展させれば頼もしい老後所得源となりうるであろう。2030年頃になれば、国民年金と退職年金がともに成熟段階に入ると見るべきであろう。二つの制度をともに考慮した給付率と負担率を勘案するとき、持続可能な給付率は長期的に40%、国民年金の保険料が13%を超えるのは望ましくないというのが私の見解である。
このような文脈から、国民年金と退職年金が成熟段階に入る以前である2030年までは国民年金の給付率を50%に維持しつつ、2030年以降は40%へ下方調整することが不可避であるように思われる。
○ キム・ヨンハ教授:適正保険料という概念は、我々がそれを金融商品だと考えるときにこそ導き出されうる概念であるが、実のところ現実的には、適正という概念それ自体が一つの答えを語るのではなく、その社会の選択を語るものだと見ることができる。我々の社会が選択すべき重要なポイントは、高齢化社会が来ようが来まいが関係なく、ひとまず老後の生活を解決しなければならないのであるが、その老後の生活を解決するにあたって、社会の責任と個人の責任をどのように分けるのかという、その部分についての社会的合意がまず導き出されねばならないということである
lang=EN-US>。ところが、個人の責任と社会的責任を分ける基本的な基準となる制度が国民年金制度であるために、国民年金制度に対してあまりに多くを要求しているのではないか、というユン博士の指摘があったが、実のところ国民年金制度というものは強制的な制度として我々国民の生活に
介入しており、全国民を対象とするものであるため、その役割が非常に大きくならざるをえないという点から見たとき、個人の責任と社会の責任を分けるに
あたって最も基準となる制度としての役割を果たすということである。そうした点で、国民年金制度は社会の責任を象徴する制度であると言うことができるのである。つまり、個人が自ら老後の備えをするのではなく、社会全体で一緒に老後に備えることのできる、その制度的な枠組みをつくってやるものこそが国民年金制度である、と見なければならないのであり、国民年金制度がどの程度の役割を果たすのが望ましいかという側面は、さまざまな基準で考えることができる。それを一律に、国家の責任、社会の責任はこうであると語ることはできないのである。なぜなら、我々が社会的に解決する比率が高いからといって非効率的であり、低いからといって効率的であると語ることはできないからである。例えば、国家の責任を多く求めている北部ヨーロッパの国々の国家競争力の順位を見ると、相当に上位にある。上位順位のスウェーデン型福祉国家を、国家競争力が非常に低いものだと我々は一般的・観念的に考えるかもしれないが、実際には国家競争力を評価する世界経済フォーラムの資料を見れば、こうした国の国家競争力が相当に高い水準にあることを知ることができる。社会的責任の程度によってその効率性を評価することはできないということである。その社会で最も適合した社会責任の程度は、国によって異なりうるということである。ところが、わが国のような場合においては、ひとまずこれまで国家が国民にしてやったものがなかった。個人の生活は個人が自分で何とかするものであり、国家が個人の生活について責任を負う部分はほとんどなかった。せいぜい最近、中学校まで義務教育をしている程度が国民生活において国家が果たす役割であって、教育についてきちんと責任を負っているのか、老後についてきちんと責任を負っているのか、それとも健康保障についてきちんと責任を負っているのか。国家に対して期待するものがないばかりか、国家がしてくれるものもなく、それゆえ小さな国家であるほど効率的だと考えるのである。そして、国家という存在がないほうがより効率的だと考える人々が非常に多く、経済学者がとりわけそのように考え、勤労能力のある相当数の若者たちが皆そのように考えている。それは、国家がしてくれるもののないそうした社会にずっと生きてきたために、国家がしてくれるということは税金をより多く徴収することであり、税金をより多く徴収することはうんざりで嫌だから、ひとまず無条件に否定的に見るのである。そうした習性が染みついているからそうなのである。ところが、この時点においては、そうした社会を我々が維持し続けることが効率的なのか、そうでないのかについての判断が必要だということである。例えば、我々の過去と今とで何が変わったのかということである。過去、我々が農耕社会にあっては、人は生まれてから死ぬときまで働く。自分が体を動かせず完全に何もできない状況を除いては、ほとんど絶え間なく働いて死ぬ。したがって、定年という概念もなく、引退という概念もない。しかし現代社会は、産業社会に入ってから60歳を前後して定年という概念が存在し、我々はその前には働き、その後は何か、その前に稼いだ所得で食べて暮らさねばならない、そうした社会にいるのである。そして国民年金について見れば、国民年金制度の本来の目的というものは実は老後所得保障であるが、では我々の老後所得を過去にはどうしてきたのかといえば、過去は家族という機能が担ってきた。家族が機能したというのは、自分で自分の金を貯蓄してそうしたということではなく、子が親を養ってきたということである。
つまり実のところ、人類社会は長いあいだ世代間扶養という概念のもとに置かれてきたということである。つまり、子世代が親を扶養するのは当然のことであったということである。それでは、国民年金制度が入ってきたということが何を意味するかといえば、家族という機能が一定の限界に達したということを語っているのである
lang=EN-US>。例えば、昔は7人、8人と産んだのに、いまは1人、2人しか産まず、ひいては産まない人まで出てくるので、親の老後の生活を子に委ねることのできない、世代間扶養が家族という単位ではそのリスクを解決できない段階に来たということである。そこで先進国が考え出したのが社会的扶養制度である。例えば、勤労世代の全体が税金を納めるように金を出して親世代を養うこと、社会全体で老齢リスクを共に解決する方式へと変えたのが公的年金制度だということである。こうした側面から見れば、公的年金制度というものは積立基金を必要としない制度である。なぜなら、勤労世代は自分の所得の一部を税金として納め、その金で親世代を養えばよいのだからである。そうすれば、家族から社会への扶養制度の転換が自然に成し遂げられるのである。なぜなら、これまで家族単位で子世代が親世代を養ってきたのと同じように、子世代が集めた税金で親世代を養えば、世代内再分配だけが行われながら制度の転換が成し遂げられるのである
lang=EN-US>。そうした点から見たとき、我々が低負担・高給付だの、収益比が2倍だ、3倍だといった話をするのも、国民年金を金融商品だと考えるからそうした話をするのであって、公的年金制度というものはもともと世代間扶養であると考えるならば、それは当然のことだということである。ところが、我々の人類史上予想すらできなかった途方もない高齢化によって、高齢者世代は長く生きるようになり、長く生きる期間というものは勤労能力を発揮できない期間であり、そのために高齢者に対する扶養負担が途方もなく大きくなるのに比べて、勤労世代はますます減っていくという危機を迎えることになったということである。つまり、これが過去と同じように人口構造が一定であるならば、過去と同じように、例えば家族が解体したとしても勤労世代が親世代を養うように運営すればよいのだが、いまや高齢化という要因があるために、我々が一方的に勤労世代だけに負担させるにはあまりに危険になったということである。それは勤労世代の負担が増加して危険だというのではなく、高齢者世代の立場から見ても自分の子の世代を信じることができないのである。 なぜなら、自分は子だけを頼りにしていたのに、後になってその子世代が税金を出せないと言い出せば非常に危険になるのであるから、勤労世代の立場から見たときに「給付水準を削らねばならないだの、保険料を引き上げねばならないだの...」といった話をするけれども、実のところ高齢者自身の立場から見ても、子にだけそのまま自分の扶養を委ねるのは危険になるのである。過去には、ただ信じて自分の財産もすべて与え、自分を扶養してくれと言ったが、いまやそれができないのである。したがって結局、扶養の問題は、過去の伝統的な方式による、子が親を養うというその部分を一部取り込みつつ、一部は自分自身で、保険料を納めなくとも自分自身の解決策を動員して貯蓄をするなり、我々が他の保険に加入するなりして自分自身で備えること、これを互いに両立させて一緒に備えてこそ安全になるのである。リスク管理の原則のうち最も重要なのは、卵は一つの籠に盛るな、ということではないか。逆に言えば、社会的責任の部分と個人的責任の部分を分けることが望ましく、それを調和させることが重要であるが、重要なのは、我々が選択すべきものは比率だということである。社会的責任を7とし個人的責任を3とするのか、社会的責任を3とし個人的責任を7とするのか、といった選択の問題だということである。その選択には一律の答えがあるのではなく、それは社会的に合意するものである。そしてそれは常に一定であるのではなく、時代の変化に応じて変わりうるものである。ところが、我々にはその合意がないということである。その合意がないということが誤りだという話である。そして、国民年金制度が合意する過程において、公平性の面で相当に問題があるということである。なぜなら、世代間扶養を前提としているにもかかわらず保険料の納付を前提としているために、保険料を納付しない低所得の40%層は、国民年金を通じた世代間扶養を受けることすらできないようになっている。むしろ高所得者が世代間扶養を受け、将来世代から転嫁を受けるのに、低所得者は保険料を納められなかったという理由で世代間扶養も受けられないようになっているということである。これは根本的に、国民年金制度が有している社会的責任の部分についての公平性を大きく損なうものであり、そうした点で国民年金制度が自らのポジショニングを誤っているということである。したがって、国民年金制度は、我々が個人の責任ではなく社会的責任であり、それは子世代が親世代を養うという役割を果たすのが基本であると考えるならば、その部分については、我々が保険料を納めたか納めなかったかにかかわらず、世代間扶養の原則に従って一定の最小限の給付はこれを通じて解決できる、そうしたシステムが
国民年金制度のなかに存在しなければならないのに、わが国の国民年金制度にはそれがないということである。それを基礎老齢年金と称して継ぎはぎをこしらえたのだが、それでは不十分にすぎ、その制度の変化としては役に立たないということである。一方、自分個人自身の責任に該当する部分について国家がしてやれることは、その枠組みをつくってやることである。自分が納めただけ利子をつけて受け取るのである。これは、自分が一生懸命努力し、若いときに多く働いた人が年金をより多く受け取るようにするということである。しかし多く受け取るというのは、自分が多く納めたから多く受け取るのであって、少なく納めた人も多く受け取るというようなものではなく、納めただけ利子をつけて受け取る、その分だけの制度をつくってやるのであり、これは国家が財政支援もせず、将来世代の支援もなく、自分自身で行い、国家はそうした備えができる枠組みだけをつくってやればよいのである。そうした制度を持っていなければならないということである。ところが現在の国民年金制度は、この二つを混ぜて、韓国人が好むビビンバを作ってしまったために、ある見方をすれば貯蓄的機能のようでもあり、ある見方をすれば世代的な扶養機能のようでもあり、ある見方をすれば社会的責任のようでもあり、ある見方をすれば個人的責任のようでもあって、混乱して整理がつかないということである。だから、年金改革をするときにも我々が整理できないために合意ができないのである。それでは、年金改革を行うために最も重要なのは、この部分を明確に分けてやる、そこから始めなければならないということである。そこで個人責任の部分、社会責任の部分、次に世代間扶養の部分、自分の貯蓄...こうしたものを分けてやることが必要であり、その配分比率について合理的な方向が明確でないときは5対5にするのも一つの方法である。世代間扶養の程度を半分程度、自分の責任を半分程度とする、そうした制度が必要かどうかについての社会的合意の過程が必要だということである。わが国の国民にこれを知らせ、十分に理解させなければならない。ところが現在、国民は国民年金をそうした観点からまったく見ていないという話である。国民はただ国民年金を、自分の金を納めて自分が受け取る制度だ...このように語りながらも、おかしなことに、見方によっては収益率が高いと語るのに、不足分は将来世代に転嫁させ...ところが将来世代に転嫁させると言いながら、後になってまた削ろうと語り、国民は正気に返っていないということである。そうした部分を明確にしてやらねばならず、例えば「自分が納めて自分が受け取る部分について、自分が誤った要求をしているのではないか?世代間扶養を語るとき、将来世代に対してあまりに多くの負担を我々が主張しているのではないか?」ということについて概念を分けてやらねばならないということである。それからして成し遂げられていないために、我々の年金改革が時間ばかりかけて進まないということである。それゆえ、我々が年金改革を続けて行えるということは当然であるが、そうした枠組みはつくっておき、その枠組みの上で、例えば比率、社会的責任と個人的責任の比率を継続して調節し、状況に応じて調節してやるという側面で継続して変化するという話であって、基本的にその枠組みもつくってやらないまま、いま年金改革だの何だの、給付水準を削るなどということは、国民に混乱ばかり与え、国民年金制度に対する不信ばかりを加重させる、そうした結果をもたらしたということである。
○ カン・ソンウォン博士:数字を求められたので、数字を申し上げる。
OECD諸国のうち、現在、給付の所得代替率が40%以下の国が約7か国程度ある。40%が、私の見るところ、ほぼ防衛線であるように思われ、この水準がおそらく下限であるようだ。現在、キム先生が述べたように、国家機構というものが個人の福祉に対してさほど何もしてこなかった国では、租税抵抗がもともときわめて大きくなっている。
そのため、その租税抵抗をある程度受け入れることを勘案すれば、ひとまず給付水準をそこに合わせたうえで、後日、国民的合意を経て拡大することはできるであろう。
現在、国民年金が国民的な人気を得られない理由は、国民年金によって得をする人がそれほど多くないからである。まず給付を受け取る人がわずかしかおらず、第二に、その給付の水準が高くないために、そのおかげで扶養義務が軽くなる人もわずかしかいないので、当然、国民の国民年金に対する支持は弱くならざるをえないのである
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これは一世代が過ぎなければ解決しない問題である。
一世代が過ぎて、自分が払った保険料に対して正当な対価を受け取る世代が生まれ、その親たちがその保険給付を受け取ることによって扶養義務が軽くなる世代が生まれてはじめて、国民年金制度が国民から信頼を獲得するのである。獲得するまでは、国民が払えるであろうという水準の範囲に合わせて給付を調整しなければならない。
だから私は、40%、13%が実は我々の現在の水準に合っていると考える。その後、国民年金が国民から信頼を獲得したあとには、合意を経ていくらでも増やしていくことはできる。
しかし今は信頼を獲得できていない状況であるから、能力に見合う分だけを給付として支給すべきだと考える。
私が国民年金を縮小すべきだと述べる二つ目の根拠は、先ほどキム先生が述べたように、我々の社会でこれまで老後所得はすべて次の世代の直系子孫の受け持ちであった、ということである。
1960年代まではわが国の家族数は6~7人であった。今は3人以下にまで落ちている。
言い換えれば、家族はもはやその機能を果たせない単位へと変わったということである。
であれば、まず個人が自ら解決するようにさせ、残りの、その個人が解決できない部分について国家が支えるという形へ変わらなければならないと考える。
例えば、今の高齢者世代は、そのように家族が変わる世代の高齢化を迎えたために、老後対策を自分で用意しなければならないという概念がまったくなかった。だから当然、子の教育にすべてを使い果たし、今持っているものがほとんどないということである。
しかし我々のような世代の場合には、もはや家族という機能が縮小しており、自分が自分の老後所得に責任を負わなければならないということをある程度わかっている。
この状況で、もし国民年金が「国家がすべて引き受けて責任を負ってくれる、あなたたちの子孫の世代がすべて引き受けて責任を負ってくれる。」ということになれば、それが民間の貯蓄意欲を低下させる作用をしうる。
言い換えれば、我々は国家があまりに多くを保障してくれるために、個人としては貯蓄をしなくなりうるという話である。米国のCongressional Budget Officeから出たレポートを見ると、米国の社会保障制度で保障が1ドル上がるごとに、大まかに見て50セント程度、民間貯蓄が減るという結果が出ている。
だからこそ国民年金は、とくに信頼を獲得していない状態では、ひとまず与えられるものは与え、保障性を下げたうえで、個人が自ら準備できる条件を開いてやろうということである。
言い換えれば、国民年金が存在することによって、金融市場で解決できる部分まで国民年金がそのまま引き受けてしまうという、そうした副作用が出かねないので、国民年金の給付は可能な限り現在の租税抵抗を最小化する水準にまで下げるべきであり、その水準が40%であると見る。
○ 司会者:やや論争的なテーマとなるであろうが、ハンナラ党式の基礎年金提案の妥当性について一度取り上げておきたい。基礎年金制度は天文学的な費用を要するという点で非現実的だという指摘を受けている。また、ハンナラ党という右派政党が、見ようによっては社会主義的な方式と言える基礎年金を主張することから来る、その真摯さに対する誤解もあるようである。しかし、国民年金の根本的な改革というテーマから考えるとき、基礎年金は最も色合いの鮮明な代案の一つと見ることができそうである。
○ キム・ヨンハ教授:実は基礎年金の部分を一般に誤解している場合が多いのだが、実際には基礎年金ではなく、基礎年金と所得比例年金へ二元化しようということである。つまり、わが国の国民年金制度を基礎年金と所得比例年金に分けようということである。ところが基礎年金の主張だけが語られ、基礎年金が死角地帯の解決のための代案であるために単に死角地帯対策だと思われ、そうなると所得再分配の機能だけを重視しているかのように誤解され、これは見ようによっては相対的に右派政党であるハンナラ党が主張するには適さない、そうした案だと誤解されるのだが、実は基礎年金と所得比例年金のセットとして考えるならば、右派政党が主張するに値する案であることがわかる。 国民年金制度が持っている二つの機能について、先ほどは社会的責任と個人の責任として述べたが、別の側面から申し上げれば、財政方式的な側面から説明が可能である。財政方式とは何かといえば、年金制度を運営する方式を意味するのだが、財政方式には二つがある。一つは賦課方式といって、ある特定の時点で勤労世代から税金を徴収し、その徴収した税金を現在の受給者にそのまま支給する方式であり、時間的に見たとき、国家予算方式に似て、現在の税金を徴収して現在の高齢者に金を支給する、こうした制度が賦課方式という制度であり、この賦課方式は現在、西欧のほとんどの国が採用している制度である。先ほど述べたように、これを世代間扶養の概念で見れば、その当時の勤労世代が税金を納めるようにして納め、親世代を養う、まさにそうした概念に適した財政方式である。一方、もう一つの財政方式として積立方式というものがある。積立方式は金融商品と見ればよい。自分が払った金に利子を付けて受け取るものである。つまり、各個人が老後になるまでは金を積立基金として莫大に積み上げておき、その金で退職後、死亡するまで分けて受け取り、完全に使い切って死ぬということである。つまり個人の立場から見れば、多く払うこともなく、少なく払うこともなく、若いときに払った分だけ積み立てておき、払った分を老後に受け取る、このように運営する方式を我々は積立方式と呼んでいる。ところが我々が年金制度においては、見ようによっては、私が考えるに、この賦課方式は世代間の扶養原理としては正しいが、将来世代に負担をあまりに多く負わせるということである。例えば高齢化が進めば高齢者の数は増えるのに勤労者の数は減るため、賦課方式には限界があるということである。一方、積立方式にすればきわめて安全なのか。積立方式にすることにもやはり危険はある。なぜなら、それは利率を前提とするものであるから、金を誤って運用してしまったり、市場状況が悪い方向に変わったりすれば、自分が積み立てておいた基金が一瞬にして消えてなくなることもありうる。例えば、近ごろは株式投資が好まれているが、その金を一生懸命に株式投資しておいたところ、証券市場が崩壊して完全に紙くずになってしまった。そうなればその金は消えてしまうのである。そのうえ、いくら我々が退職するまで金を貯めておいたとしても、60歳で退職するとして、60歳以降に自分がどれだけ長く生きるかはわからない。20年生きると考えるときは20年で割って金を使えばよいのだが、例えば20年生きると考えていたのに、後になって見たら30年生きることになった。そうなれば10年間、食うや食わずで暮らさねばならない。つまり、我々が積立方式にすることも実は危険なのである。つまり、我々は積立方式と賦課方式を組み合わせなければならないということである。ところが現在、わが国の国民年金制度が採用している方式は修正積立方式である。これは外形的には積立方式である。自分が保険料を払った分を後で受け取るという概念を持っているが、結局は払った分よりも受け取る分が2倍になるように設計されているため、実はこれは形こそ積立方式としたものの、後には賦課方式に転換してしまう、そうした問題を抱えた制度だということである。わが国の国家制度として見れば、修正積立方式によって金は今192兆ウォンが積み上がっており、後には1,700兆ウォンまで増え、制度改革をすれば5,000兆ウォンまで増えることになるが、それが失われるときには、わずか15年で積立金がきれいに消えてしまうのである。そして実際に、そのようにして積立基金が失われるその時期が、まさにどのような時期かといえば、人口高齢化が最大化する時点だということである。人口高齢化に備えて積立基金を一生懸命に積み立てるとしていたのに、いざ人口高齢化が最大となった2050年代になれば積立基金がなくなってしまうことが問題である。つまり、いくら金を積み立てても何の意味もない。むしろ人口問題がないときには積立基金を多く作っておいたことで、かえって政府貯蓄が過剰になることによって個人貯蓄が萎縮する効果があるのに、長期的に見て本当にその貯蓄が効果を発揮しなければならない時点で積立基金がなくなってしまうので、結局は賦課方式に転換され、全般的に我々がその制度を運営する意味がなくなってしまうのである。だからこそ、年金制度を始めるときから積立方式の部分と賦課方式の部分を分けて始めなければならないということである。そして積立的な部分は、この金は積み立てられたなら一定の水準から減らないように、なぜならこれは払った人は払い続けて受け取っていく一方、また新しい人を入れ続けて積み立て続けるので、一定の積立金が維持されるのである。次に、世代間扶養を原則とする賦課方式によって、勤労世代が保険料(税金)を払い、老年世代に給付を支給する、その方式が絶妙に調和をなしながら運営されるようにするが、その初期から比率を定めておかなければならないということである。それは社会的責任と個人の責任の比率を定めることと同じである。つまり、積立方式と賦課方式の比率を定めることも、社会的責任と個人の責任の比率を定めることも同じだという話である。その比率を最初から定めて始めなければならないのだが、社会的責任と個人的責任が混ざっているのと同じように、賦課方式と積立方式の性格が混ざっているために、これが財政方式の運営において本来の機能を果たせないということである
lang=EN-US>。そうした側面から見たとき、これをきちんと分けてやることが必要であり、分けてやるとしたとき、この世代間扶養を行うこの部分がまさに基礎年金である。次に、自己貯蓄的な機能というのが所得比例年金である。そのようにして、それを調和させることが我々の年金制度の基本的な枠組みとならなければならないというのが私の主張であり、そうした側面において基礎年金と所得比例年金の意味があるのであって、これを単純に、基礎年金をただ死角地帯を解消するために税金をむやみに徴収してむやみに使おうというところに目的があるものと考えるから、これが右派政党の論理なのだが、私が申し上げた論理であれば、これは右派政党の論理ではなく、自由市場経済を維持するためのきわめて基本的な制度の枠組みとして、年金制度を多層化しなければならないという、その必要性を主張しているのである。
○ ユン・ソンミョン博士:言うまでもなく基礎年金制度は良い制度である。すべての高齢者に対して国家が税金を徴収し、最低限の生活が可能となるよう年金を支援してくれるのだから、受け取る人も、年金を支給する国家も、みな喜ばしいことではないだろうか。
ところが問題は、この制度を運営するためには莫大な費用を要するということである。かつてのような高成長・高出生率の時代には大した問題にならなかったが、少子化・低成長・超高齢社会では途方もなく費用が多くかかるということである。
これに伴い、租税方式の基礎年金を導入した国々が徐々にこの制度から抜け出しつつある。代表的な例が、福祉国家の典型と呼ばれるスウェーデン、フィンランドのような北欧型福祉国家である。フィンランドの場合、90年代半ばには基礎年金受給者の比率が高齢者全体の93%の水準であったが、わずか10年が過ぎた04年度には50%台半ばへ急減した。さらに衝撃的な事実は、彼らの大部分が基礎年金の一部しか支給されていないということである。満額の基礎年金、すなわち完全な金額の100%の基礎年金を支給される受給者が高齢者全体の8%にすぎないというのが、今日のフィンランドの基礎年金の現実である。
では、なぜこのような問題が現れるのか。すでに申し上げたように、費用があまりにも多くかかるからである。租税方式の基礎年金の場合、制度の属性上100%賦課方式、すなわち年金の支出額を勤労世代が税金で負担する方式であるから、出生率の低下によって勤労人口が減れば、勤労世代の負担が急激に増加することになるのである。
わが国の場合、世界で出生率が最も低い一方、平均寿命は最も速い速度で延びている。言うまでもなく、今すぐ租税方式の基礎年金を導入すれば、後の世代の負担が途方もなく増えるであろう。今のところは高齢者の数が多くないので費用は少なくて済むであろうが、ベビーブーム世代が大挙して退職する2020年代半ば以降、制度の維持費用は想像を絶するものとなる。なぜなら、ベビーブーム世代が自分たちの受け取る基礎年金の財源を貯蓄しておいて退職するのではなく、後の世代が負担するという前提のもとで、何の備えもなく退職する状況だからである。したがって、租税方式の基礎年金の基本的な趣旨には共感しながらも、制度の導入についてはきわめて慎重な姿勢を取らざるをえなくなるのである。
年を取れば国家が税金を徴収して基礎年金を支給するという事実を若いときから知っていたなら、老後への備えを徹底するだろうか。私はそうではないと見る。若者たちに、老後への備えにおいてモラルハザードの現象が誘発されうるということである。
公的年金を通じた世代間扶養は結構である。しかし、我々がよく暮らそうと、後の世代の背骨を折ることになる、ということである。であれば、どうすべきなのか。
世代間扶養は適当な線で行うべきだと考える。後の世代が我々より豊かに暮らすであろうという仮定のもとでも、後の世代が享受する経済成長の果実のうち20~30%程度を我々が持ってきて使うべきなのであって、経済成長の果実の100%、あるいはそれ以上を我々に寄こせというのは、あまりに無責任ではないだろうか。
最近の外国の年金改革の動向を見てみると、延びる平均寿命に比例して法定退職年齢を遅らせ、高齢者就労を奨励することで、年金よりは勤労所得で生活するよう誘導している。過去のようなパラダイムの維持が難しいという現実認識のもとで、老後所得の基本的な枠組みを変えつつあるのである。
このような状況で我々が100%賦課方式の基礎年金を導入するならば、たとえそれが20%の所得代替率を保障する制度であったとしても、長期的には持続が不可能であろう。であれば、何が代案となりうるのか。
私は、現在60%の所得代替率を提供する国民年金をできるだけ平たくしなければならないと考える。すなわち、所得代替率を40%以下へ縮小しつつ、今よりも積立方式を強化することで制度の持続可能性を高めると同時に、後の世代に負わせる負担を最小化しようということである。所得比例部分と所得再分配機能を統合しつつ、平たくなった国民年金が実質的に基礎年金化するようにしようということである。
後の世代に転嫁する負担を最小化することによって、後の世代の政府に財政余力が生まれるであろう。若いときに自分たちの老後所得を用意するよう政府が積極的に促しつつ、あれこれの理由で老後の所得源を確保できなかった集団(勤労期間だけでなく老後にも貧困にさらされている集団)に対しては、政府の財政余力をもとに基礎生活が可能となるよう、これらの集団への支援が可能となるであろう。
超高齢社会に効果的に対処するためには、名分や政治的スローガンよりは、長期的に実行可能な方策を模索するほうがより望ましいのではないだろうか。今からすべての高齢者に国家が税金を徴収して 年金を出すと言っておきながら、いざ高齢者になったとき、政府に財政余力がなく年金を出せない状況のほうが、より悲惨な状況ではないだろうか。
相当数の年金専門家は、このような状況を懸念しているのである。
○ カン・ソンウォン博士:私の立場としては、まず世代間の扶養義務を政府機構を通じて保障することが、次第に難しくなってきていると考えられる。
あまりに高齢化が進んだために、国家機構が次の世代に過重だと感じるような負担を負わせずには高齢世代を食べさせていくことが難しい、そうした形になった。だからこそ、国民年金をむしろこうした視角で、すなわち、私的年金市場にはそれなりの市場の失敗が存在するために、まず加入率が低く、加入する人はたいてい危険の高い人、すなわち長生きする人ばかりが加入するという現象が現れるために、その危険の全体を完全にプーリングするという意味において国民年金が存在するということが
lang=EN-US>、市場の機能を保護する形で国民年金が存在するということが、より現実的に、つまり今の世代においてはより適したことではないかと考える。
したがって、世代間の扶養義務を国民年金を通じて解決するということは、もはや大きな意味を持ちえず、
そうすることもできず、その必要もないというのは、民間部門で金融商品が生まれてきているために、個人が自らを老齢以後の危険に対して防御できるという期待があるからである。
ただし、その場合に問題となるのは、所得が低いか所得のない人々が問題になるということである。貯蓄する金すらない人は、いったいどうすればよいというのか。だからこそ私は、国民年金制度はそのように所得比例で進めつつ、基礎年金のような形で市場からの脱落者を保護する制度がなければならないということである
lang=EN-US>。
ただし、これについて私が時限性を主張する理由は、このグラフのためである。
おおむねわが国の統計庁の人口調査を見ると、65歳以上の年齢が2020年までは15%以下に維持されていたのが、30年、40年、50年へと進むにつれて10%ずつ跳ね上がっている。
そして、このグラフと、GDP比の基礎年金支出額を推算しておいたものとを照らし合わせると、ほとんど同じように合致する。
したがって、基礎年金を恒久的に持っていくには、まず人口構造そのものが相当に難しいということである。
「それならいっそ無くせばよい、なぜ今は残しておくのか?」今の高齢者は、市場を通じて自らの老後に備えるだけの機会がなかったということである。
かといって、労働市場に参加して自分の所得を用意できるのかといえば、それもできないのである。
実際、いまその高齢者は会社に多いではないか。企業の立場からすると、この人たちをそのまま採用してやるわけにはいかないということである。
だからこそ、今は普遍的な基礎年金が相当に有用な制度だと考えることができる。
まず、貧困な高齢層が相当に広範に存在する状況でありながら、高齢人口そのものが多い状況ではないからである。
だからこそ、その高齢化が本格化する以前までは、これまで民間で自らの老後を準備することができなかった世代に対しては、無条件の基礎年金を通じてある程度は保護してやり、その代わりにここに期限を付して、私のような若い人の場合には、民間で金融商品を利用し、既存の国民年金を利用して自ら考えて準備させよ、ということである。
なぜなら、先ほども申し上げたように、国家が将来の所得を保障してくれるとすでに宣言してしまえば、私としては貯蓄を減らして若いうちに楽しみたいという欲求が生じるからである。
言ってみれば、公的な所得保障と私的な所得保障の間には、代替的な役割があるということである。
したがって私は、若い世代はできるかぎり、国家が提供する最小限の所得比例国民年金と、個人の民間金融市場における商品とを通じて備えつつ、そこで失敗する人々のためには所得審査を通じて基礎年金を可能なかぎり最小限に保障してやることで、さらに進んでは国民基礎生活保障制度に
高齢者部分を統合することによって、そこから落ちる失敗者だけを国家が責任を負う形へ変えることがよいのではないか、ということである
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○ 司会者:カン博士が新たな代案を述べられたようである。もう少し具体的な説明をしていただき、残りの方々はそれについての意見を述べていただきたい。
○ カン・ソンウォン博士:簡単に言えば、国民年金を3層体系で構成しようということである。1層は先ほど申し上げた基礎年金である。2層は所得比例国民年金、確定支給型についてである。これは、所得に合わせて保険料を納める人々に対して、まず国家がある程度の危険を軽減してやろうということである。
最後に、その上にもう一つ乗せるのは、金融市場の制度的な失敗だけを補完してやり、国家の役割は機構を用意してやるだけという、その層である。
言い換えれば、皆ご存知のとおり、国家が何らかの口座を開いてやって個人が民間の金融商品に投資できるようにすることを、加入は強制としつつ、投資できる商品は個人が選択できる口座を用意してやろうということである。
個人貯蓄口座の導入を主張する根拠は二つである。一つは、先ほど述べたように、民間の金融市場に任せておくと個人は長期的な最適化が難しいために加入を渋る現象が現れうるということであり、その加入を渋る人々に加入を説得するために金融会社が1対1の接触をすることになり、取引費用が増えるという短所がある。
これに国家が介入し、その代わりにマッチングだけをしてやる役割に徹すれば、そうした市場の失敗を治癒できるということである。
二つ目は、わが国の金融市場というものは、キム先生が大いに心配されたが、これまで実際、安定的な所得保障の役割を果たせてこなかった。
しかし、最近は間接投資商品が増えており、資本市場の開放も大きく進むにつれて、その不安定性もある程度は解消されるであろうし、そのうえ海外投資を許容するならば、より発達した資本市場の順機能を我々が吸収することができるであろう。
エクイティ・プレミアム・パズル(Equity Premium Puzzle)というものがある。米国の資本市場で、国家が保障してくれる債券と民間の株式収入とを100年の単位で見たときには、7対1で民間の株式収益率のほうがはるかに高いということである。
こうした高収益を上げうる部分は個人も利用できるようにしつつ、とくに低所得層の場合は取引費用のために参加できない側面があるので、これは国家がいっそ制度的に用意してやろうということである。
強制加入させ、その代わり、例えば今は保険料を9%納めることになっているもののうち、7%は国家が保障してくれる所得比例DBシステムに入り、残りの2%に限って個人が自ら選択して投資し、その代わり投資収益だけで老後所得を保障できるようにしてやろうということである。
そうなれば、国家が保障してくれる部分と資本市場の部分とが一緒に入るので、リスクもある程度は分離されうるであろうし、次に、同時に資本市場に投資した部分で運がよければ高収益を上げることもできるであろうし。
私は、金融商品そのものをインデックスファンドの形で市場を追従する、受動的な投資を行う商品として提案するのであれば、十分に長期的な資本市場の収益を個人が享受できる制度を用意してやる、制度的な装置になりうるのではないか、という話である。
この制度は、1994年のスウェーデンの年金改革ですでに反映されている状況である。そして、個人口座は二つの形態になっているが、一つは、米国の公務員を対象とする個人投資口座であるTSPのような年金保険の形態である。この場合には、国家機構または政府機構が民間を相手に公開入札の形で商品を選定したうえで、それによっていくつかのファンドを構成する。そうして、個人の選択の幅を、その数種類のファンドにひとまず制限するのである。
反対に、スウェーデンの形態は清算所(クリアリングハウス)型である。ある程度の資格を満たせば、金融会社と金融商品をシステムの中に引き入れて、個人が自ら選択できるようにしてやる。ただし、取引費用を減らすために1対1の広告はできないことになっている。
こうした形態で現れる短所は何かというと、チリで現れ、英国で現れたように、取引費用が非常に大きく収益をすべて持っていってしまうという批判がありうるのだが、その取引費用の大部分こそが、まさに1対1のコンタクトから生じるマーケティング費用なのである。
したがって、その部分を制度的に遮断し、国家がその取引を代行してやるならば、国家は規模の経済を利用してその取引費用を下げることができ、個人としては一部なりとも高い所得をある程度は享受できるのだから、もう少し補完的な制度になりうるのではないかと思われる。
言い換えれば、国民所得というものは資本勘定と労働勘定に分けられるではないか。今の国民年金は、実のところ労働勘定に完全に依存している制度だと言える。問題は、高齢化によってこの労働勘定の基盤が縮小し続けるということである。その場合に、資本勘定で支えようということである。
○ キム・ヨンハ教授:基礎年金の財源負担が高齢化に伴って増加する時期が、高齢化が深刻に到来するために時限的に運営しなければならないというその案、そして所得比例年金を中心に公的年金制度を持っていくということ、次に三つ目としては、3層の部分においては自己貯蓄勘定を通じて年金制度を運営するというのは、3層の保障体系として相当に興味深く議論する必要性があると考える。ただし、基礎年金の部分を時限的に持っていくことができるのかという部分について私が判断するに、わが国は現在の状態で80%の高齢者に公的年金体系がなく、またこれらの階層が公的年金制度の適用を受けることもできない、そうした時代を生きてきたために、実のところ基礎年金は必要である。そこまでは正しいとしても、基礎年金は国民年金が定着した40年後には必要ないという論旨は、十分な検討が必要である。現在の国民の家計収支動向を階層別に5分類に分けてみたとき、下位40%はほとんど貯蓄ができず、保険料も納められずにいる状況である。つまり、この階層は貯蓄もできず国民年金保険料も納めることができないために、今後、退職した後にも老後に必要な所得を準備できていないであろうし、そしてその階層は、自分自身が国民年金の保険料も納めなかったために受け取れない可能性が高い、そうした階層が明確に存在するということである。つまり、いまのこの公的年金の死角地帯の問題は、この二つが重なって現れているにすぎず、後には国民年金制度がなかったために生じる問題はなくなるであろうが、現在のわが国の所得構造から見たとき、年金保険料の納付を前提とした国民年金制度の限界性によって、年金制度が公的年金制度の機能を果たせない階層が40%程度はそのまま維持される可能性が高いということである。ところが、その階層に対する老後所得保障はどうするのかというときに、 その人たちのための別途の制度を作り、その次に金のある人のための所得比例年金制度を構成することもできるが、そのようにしたとき、その社会が一つの共同体として運営されうるのかということである。社会保障制度が必要な理由は、貧しい人に餅を一つ握らせるという同情心から始まる以前に、我々が一つだという共同体を構成することによって、この国家が分裂せず、社会的に高い信頼関係が維持された状態でうまく回るようにすること、そうして 階級対立が起こらないようにしながら、我々が社会主義へ転換することなく資本主義がより強固に維持されるようにすること、これが社会保障制度であるが、ある低所得層のための年金制度と中上層以上のための年金制度とが、そのように二つの二元化された構造へ進んだとき、その社会が健全になるのかということである。私は健全にはならないと考える。したがって、最低生計の部分については我々国民が共に責任を負わなければならない。金持ちであれ貧しい人であれ共に負担し共に暮らしてきたのであり、基礎年金部分の将来世代の負担が賦課方式で運営された場合に大きいという話をするが、私が言うこの基礎年金というのは、最低生計費に相当する老後の生計費は国民全員が共に運営しようというものである。最低生計費で言えば、2人世帯の最低生計費の半分であるから、だいたい30万ウォン程度である。ところが、30万ウォン程度の年金を受け取るからといって、自分はいま貯蓄をしないという人がいるだろうか。年金制度による貯蓄減少効果がどのような場合に現れるかといえば、自分に100万ウォン、200万ウォンの確実な所得が保障されたときに、その金を当てにしていま貯蓄する必要がないという話であって、基礎年金の30万ウォンを当てにして自分は貯蓄せずに暮らしてもよいという階層はいないであろうという話である。下位40%の階層は、どのみち保険料を納められず、積み立てることもできないであろうから、貯蓄減少を云々する必要もない。したがって、「基礎年金制度というものは40年後にも必要である。」と考える。ただし、この年金制度を運営する方法においては、基本的に基礎年金と所得比例年金という2層構造で進むが、後には所得比例年金を体系として運営しつつ、例えば基礎年金を最低保障年金の形態へ転換していくことは検討可能であろう。しかし、その検討が可能な時期というのは、わが国が透明化され、所得把握もなされ、その次に死角地帯が大きく減り、女性の経済活動参加率が高まるといった社会的な環境が整ったときに、我々が所得比例年金中心へ進みながら、基礎年金は自然に最低保障年金制度へ転換することが可能だということである。したがって、先ほどの個人貯蓄口座はよい概念であり、もう少し進めば、所得比例年金そのものを個人貯蓄口座と統合して運営してもよいであろう。なぜなら、所得比例年金が自分の金を納めて自分が受け取る完全積立方式で運営されるものであるならば、個人貯蓄口座と性格が異ならないからである。したがって、それを統合して運営する、そうした形態へも発展可能だということを申し上げる。
○ ユン・ソンミョン博士:政府の改革案は、長期的にどのような方向で老後所得保障体系を構築するにせよ、飛び石の役割を果たしうる案だと考える。2005年の世界銀行の報告書でも言及されているように、今より給付率が低い方向で財政安定化が可能な制度改善を実行に移す場合、そうした措置こそが根本的な制度改革の基盤になりうるからである。
超高齢社会に効果的に備えるために多層所得保障体系を構築しようということに対して、異論を唱える人はほとんどいないであろう。問題は、どのような多層所得保障体系を構築するのかということになる。
私は個人的に、3層よりも広い概念の多層体系を導入する必要があると考える。わが国にすでに導入されている国民基礎生活保障制度や医療サービスなどを含める概念である。世界銀行もまた、超高齢社会における財源調達の問題などのために、伝統的な現金給付のほかに現物給付を多層所得保障体系に含める方案を提示したことがある。
租税方式の普遍的な基礎年金制度の導入、多層所得保障体系におけるその役割などに関連して、すでに何度も言及したように、私は、いますぐ普遍的な基礎年金を導入することには問題が多いと考える。とくに多層所得保障体系の観点からは、また別の混乱要因になると判断される。
すでに導入されている国民基礎生活保障制度を個別給与に転換し、高齢者については今より給付対象の幅を大幅に拡大する必要があると考える。付言すれば、勤労が可能な年齢層に比べて制度の適用基準を大幅に緩和する必要があるということである。普遍的な基礎年金の導入が検討されている折に、高齢者に厳格に適用される受給者の選定基準を緩和する必要がある。ここに、すでに導入されている敬老年金、高齢者交通手当制度などの統合適用、また現在導入を検討中の政府与党の基礎老齢年金制度が、一つの制度に統合される必要がある。
長期的なビジョンではなく政治的な目的に従って即興的に導入された制度の副作用が、すでに現れている。なぜ国民年金と公務員年金を受け取る受給者とその配偶者に対しても交通手当を支給し、年6000億ウォン程度の予算を使うのかという話である。この予算を、国家の支援がぜひとも必要な低所得の高齢者に相対的に手厚い額で支給する場合、社会全体としてどれほど効率的でありうるのかということである。
こうした脈絡から私は、すでに導入されている公的扶助制度を低所得の高齢者中心に大幅に拡大する制度、それにどのような名前を付けるにせよ、この制度が最も基本的な0層の制度にならなければならないと考える。次に、自分が納めた保険料に基づいて年金を受け取る、財政安定化措置がなされた国民年金が1層制度、企業年金が2層制度、個人年金が3層制度、最後に国家が提供する医療サービスと住居福祉が4層制度として含まれなければならないということである。
長期的に、現金給付のほかに医療サービスなど現物給付を統合して運営することにより、高齢者関連の費用支出が際限なく増えることに対する統制装置が必要だと考える。すでに導入されている制度を有機的に結びつける場合、不必要な費用支出を抑制できるということである。高齢者の場合、不要不急の支出の相当部分が医療費関連の支出であろう。今後、老人介護保険など追加的な公的医療関連の制度が導入される予定であるが、こうした制度がすべて有機的に結びつけられる場合、年金として支給される現金給付の部分が統制されうる。
したがって、普遍的な基礎年金を現在の高齢層の死角地帯の問題が収まるまで時限的に導入しようという案に対して、私はむしろ正反対の立場である。租税方式の基礎年金制度はよい制度ではあるが、長期的にあまりにも費用がかかりすぎるからである。とくに、わが国の人口構造で絶対多数を占めるベビーブーム世代が何の準備もなく退職した場合、後の世代の負担が途方もないものになるという点を勘案する必要があるということである。
したがって、普遍的な基礎年金をぜひとも導入するというのであれば、今ではなく、人口高齢化の程度がある程度収まった時点以後に導入することが、制度の持続可能性を勘案した正しい対処の方向だと考える。しかし、ベビーブーム世代が大挙して退職する2030年以後に導入するとしても、対象の幅は最小化する必要があると考える。現在カナダで運営しているように、上位所得者の30~40%程度については基礎年金を税金で回収する制度も効果的であろう。
毎日経済新聞およびサムスン経済研究所には、これに関連してもう少し考えを深めていただくようお願いしたい。なぜなら、基礎年金に関連した両機関の立場表明が、今後の年金論議において相当な影響を及ぼしうるからである。
○ 司会者:以上で討論を終える。長時間、お疲れさまであった。
< インターネット版では可読性があまりにも低いため
討論内容の全体を、歴史的に重要な史料を確保する目的で年金研究会ホームページのアーカイブの項目に収録したことを明らかにする。)
